不思議な客
緑の匂いがあると安心する。
枝を整えられて気持ちよさそうなベンジャミンの姿。細長い葉を垂直に伸ばしたサンセベリア。小さな鉢で自分を主張するハーブの数々。どれもが心地よい空気を作り出してくれる。彼らを支える土は大地の力強さを、潤いを与える水は生命の恵みを匂わせていた。
千草馨はガーデンショップの居心地の良さに満足していた。新しくオープンしたこの店で雇ってもらえたのは幸運だった。ハローワークに通いながらガーデニングの職業訓練を続けていた甲斐があった。
仕事は楽しい。一日中植物に囲まれていられるし、店長や同僚も良い人たちばかりだ。掃除好きな馨は時間があれば床の落ち葉取りや植物につく虫の退治を率先してやった。店長は馨の働き具合を気に入ったようで、同僚も面倒な仕事をしなくてすんで愛想が良かった。
「いらっしゃいませ」
平日の午後、道路に面した入口に中学生くらいの女の子が姿を現した。馨はおやっと思った。彼女の年齢からすると学校に通っている時間だったからだ。
「こんにちは」
馨の視線に気づいた彼女は悪びれた様子もなく挨拶を返してきた。後ろ暗さは見えなかった。出歩いている理由がちゃんとあるのだろう。
子供がガーデンショップの客として訪れるのは珍しい。母の日の前くらいがせいぜいである。花や植物が好きな子かもしれないと思うと、馨は親近感がわいた。
「寒くない?」
太陽が昇ってもまだ冷気は残っていた。コートはいらなくても、短いワンピースとレギンスという装いは寒いだろう。身体を動かしているのならともかく、歩いたくらいでは汗もかかない気温だ。
「はい、特には」
あまり抑揚のない声だった。表情も乏しい。
機嫌が悪いのかと馨は思った。親に怒られて飛び出してきたのかもしれない。馨も経験があるからわかる。こういう時はそっとしておくのがいい。
そうなんだ、と言って馨は少し距離を置いた。気にはなったから、バジルの枯れかけた葉を取り除く作業をするついでに彼女の様子を窺った。
彼女はローズマリーを眺めていた。小さな紫色の花を咲かすローズマリーはステーキの臭みをとるためによく使われるハーブである。どこかで嗅いだことを思い出したのだろう。子供は正直で興味の行き先がわかりやすい。少女のかわいらしさと相まって、馨は微笑ましくなる。
「いい匂いよね」
馨は見守ろうと決めたにもかかわらず、つい声をかけてしまった。
ハーブから作られる精油やアロマウォーター、それらを用いたアロマテラピーについて、馨は関心がある。表向きの効用は言うに及ばず、怪に対する知られざる効果も研究している。少女が興味を持ってくれたことが嬉しかったのだ。
「好きな香りです」
少女は年相応のはにかんだ顔になる。
「迷迭香は集中力を高めてくれます」
彼女の表情の変化と意外な答えにどきりとした。女の子は無愛想なわけではなかった。愛想よく振る舞うことが苦手なのかもしれない。好きだというハーブの話をしただけで、これほどまで愛らしい表情を見せてくれるのは素直な娘の証拠だ。
「あなた、ローズマリーのこと、詳しいのね」
迷迭香はローズマリーの日本名である。馨は別称を思い出すのに少し時間を要した。
「はい、よく使います」
お肉が好きなのかしらと思い、馨は少女の目に吸い寄せられた。純度の高いガラスか宝石の輝きが見えた。若さに満ち溢れている。
馨は既視感を覚えた。どこかで似た輝きを見た気がする。
「あ、ちょっと!」
記憶を探っていたところに事件が起こった。
少女がハーブの鉢から土をつまみ、口の中に入れてしまったのだ。頬の内側で舌が動いた。
「こういう配合なんですか」
彼女は指についた土も舐めて、納得の表情を作った。
「食べちゃったの?」
馨は自分の見た光景が信じられなかった。幼子が誤って土を食べてしまうのならわかるが、自我のある子が味見したことに驚きを隠せない。
「迷迭香の色艶がうちのよりよかったので、土はどうなのだろうと思って……ごめんなさい」
少女は馨の硬い表情を見て頭を下げた。
「それはいいんだけど、土の味がわかるの?」
専門家は土の味で品質や成分がわかるらしい。馨も一度やってみたことはあるが、さっぱりわからなかったし、気持ち悪くてすぐに吐き出してしまった。それをこの娘はやってのけた。専門家並みの分析力を有しているということになる。
「すごいじゃない! ハーブも詳しいみたいね」
「そんなに詳しいわけではありません。……でも、良い土なのは確かです」
少女は馨の反応に驚いて俯いてしまった。
「あの、この土をください」
「あ、うん。ええとひとつでいいかしら」
馨はハーブ用の土を取り上げる。
「ねえ、近くに住んでいるの? もしよかったら、また買いに来てね。私、千草馨。よろしくね」
馨は作ったばかりの名刺を渡し、店のクーポン券も添えた。
「ありがとうございます……馨さん」
少女は丁寧に頭を下げた。
「私は葉室琴子と申します」
「いい名前ね。葉っぱの室なんて、この店にあっているわ。琴子ちゃんも日本的で風情があるわ」
琴子は何と言えばいいのかわからず、再度おじぎをした。
「奇麗な指輪」
「あ、これ?」
琴子の視線が馨の小指に注がれていた。馨の指には青と緑のビーズでできたピンキーリングがはまっていた。
「いいでしょ。植物の緑と潤いの水。テグスは土をイメージしたブラウンなんだ。自作にしてはいい出来だったから気に入っているの」
馨は左手をかざした。
「左の小指にはめると、願い事が叶うんだって。ただのおまじないだけどね」
「願い事ですか」
「そう。私、アロマテラピーのセラピストを目指しているの。色々お金がかかるから、今はバイトに精を出しているってわけ。そういうわけで琴子ちゃん、今後ともご贔屓にしてね」
営業スマイルらしからぬ馨の笑顔につられ、琴子の頬も自然とほころんだ。