沈香
彼は深い眠りについていた。腹の上に乗った手が未来永劫解かれることはない。固く組み合わされた指は鎖であった。
鎖以外にも、彼を拘束するものがある。
糸だ。
目蓋が縫合されていた。
きめ細かい繊維が頬の皮膚を貫き、睫毛の上を通って眼球の天蓋に潜る。涙で腫らしたような盛り上がりが痛々しい。
そんな仕打ちを受けてもまだ彼は許されなかった。
鼻の穴が潰されていた。こちらも糸で縫い合わされている。悲惨な光景は続く。唇は上下に締め付けられ、耳は頭部に張り合わされていた。穴という穴。すべてが糸によって封じられていたのである。
驚いたことに、肉を貫く糸に汚れはなかった。繊維は白さを保ったまま、役目を全うしている。血液や体液に濡れていない。まるで、無機物を縫い合わせただけのように。
影が揺れる。
葉室は作業台に乗った男を見下ろした。裸体を晒す彼の隅々まで熟知していた。特別な縫合は葉室の手によるものだ。
男の頬を撫でた。手のひらから滑らかな感触が伝わってくる。皮膚の下に硬質さが認められた。指の腹で強く押すと抵抗がある。人間ではあり得ない硬さだった。生きている時はもちろんのこと、死後硬直でもこんな状態にはならない。
「死んだか」
葉室は異様な硬化と死を結びつけた。人間に起こり得ない現象は、人形には普通に訪れる。自ら作り上げた人形の死に、葉室は幾度も立ち会ってきた。
厚手の布を人形にかけた。左右の端を背中に回してくるみ、頭まですっぽりと覆った。
「往け」
葉室はハンマーを打ち下ろした。陶器の砕けるような甲高い音がして、人形を覆っていた布が波打った。腹が陥没する。次に胸がへこむ。そして頭が砕けた。葉室は何度もハンマーを振るった。数分後には厚みが半分になり、平らにならされていた。
人形は器だ。妖や怪を封じ込める道具だ。この人形には怪が閉じ込められていた。餌となるハーブで誘き出し、毒薬となる呪水を流し込まれ、糸で封じられる。毒が回り死に絶えた時、人形は完全な無機物となる。そして、破壊されるのだ。
葉室はハンマーを置き、作業台に手をついた。かすかに顎が震えていた。奥歯を噛みしめる音がする。
自分の作った人形を破壊しなければならなくなったとき、人形師は心を殺すように努めていた。
布で隠せば人形を見ないですむ。最初の一撃を加えてしまえば踏ん切りがつく。砕いて形がなくなれば心が痛まなくなる。自分の手で作り上げた作品はただのガラクタになるはずだ。
布ごと破片を木箱に詰め始めた。腕の一部、腿の内側が見え隠れした。一目でどの部位かがわかる。最後のひと欠けらは右の脇腹だった。
溜め息を吐いた。壊すために人形を作るのだとしても、やはり割り切れるものではなかった。
「眠れ」
人形だった物の上に香木の欠けらを置く。
アガーウッド。
沈香とも呼ばれている。浄化の力がある香木である。
マッチを一本擦り、香木に火をつけると白い煙とともに渋みのある香りが上った。
香りを手向けることしかできない。葉室は目を閉じて人形への思いを馳せる。匂いが消え去る頃には平穏を取り戻していた。
木箱に蓋をして別れを告げた。
作業台をセージで清め、気力を呼び起こした。
破壊を終えた後は創造が訪れる。




