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人形師の庭園  作者: あると
白檀
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誘い

医師は化け物に取り憑かれていた。白衣の袖から伸びた腕が水野の首を締め上げる。水野は必死に抵抗するが、強張った腕はぴくりとも動かない。呼吸を阻害され、水野の顔が赤くなり始めた。

葉室は精油の瓶に触れたものの、事態は急を要すると判断した。医師を引き剥がすために二人の間に割って入る。

拘束は思いの外簡単に外れた。水野は尻餅をついた。哀れな医師は葉室とドアの板挟みになる。

「くっ」

葉室の呼吸が止まった。脇腹に医師の膝が食い込んでいた。葉室が体当たりしてくる寸前に、医師は水野を解き放ったのだ。突っ込んでくることを予測した動きだった。

『人形師……』

医師が喋った。いや、彼に取り憑いている黒い化け物が人の言葉を使った。

『お前が人形師だな』

犬を彷彿させる獣の鼻面が上下していた。輪郭は溶け崩れ、どろりとした粘液にまみれている。醜い皮膚の下で黄色い目が光を放った。

妖か。

葉室はよろめきながら医師から離れた。息を継ぐ間、化け物はじっと動かなかった。医師も棒立ちで舌を垂らしていた。涎が床に落ち、染みを作る。犬の仕草が哀れみを誘った。

葉室は思考を巡らした。化け物は人語を話しただけではない。葉室の行動を予測する知能も有していた。怪ではなく、より厄介な存在である妖なのは間違いない。

だが、何故ここに現れたのか。田所の怪を封じた場面に都合良く訪ねて来たのが不可解だ。人形師と口にしたこともおかしい。その別称は水野にも教えていない。取り憑かれている医師も知るはずがなかった。

葉室の脳裏に掃除婦の女の影がちらついた。疑念の解答はそこに行き着いた。妖に問い質してみる価値はある。

「クソッ! 何しやが……る」

水野が大きく咳払いして医師に飛びかかろうとした。だが、妖犬を目にして怒声が尻つぼみになる。葉室は水野を押しのけた。彼を危険な妖に近づけるわけにはいかない。

天竺葵の精油瓶を手に取る。精油を振りかけられないまでも蓋を開ければ、匂いで妖を遠ざけることができる。ともかく優位に立つことが先決だ。話を聞き出すのは後回しでもよかった。

人差し指と親指の腹を蓋の側面にかけた。突然、妖犬の舌が伸びた。葉室の手が打ち据えられ、半ばまで開いた瓶が弾き飛ばされた。

「しまった」

ガラスの割れる音は手の痛み以上に葉室の意気を挫いた。油断していた。精油という武器を持っていても使えなければまったくの無意味だった。

『こちらに来い……と言って』

「断る」

妖の耳障りな声を遮って葉室はゴミ箱を投げつけた。犬の舌がゴミ箱を叩いたのを見ずに病室の奥に向かった。そこには田所に使った呪水がまだ残っている。奴らの嫌う臭いを嗅がせてやる手を思いついた。

妖犬は意図を察したのか、舌をしならせて妨害した。

足下をすくわれた。転げながらも田所の寝台にすがりついた。人間と人形の間に滑り込み、呪水の瓶に手を伸ばす。

『臭いぞ』

空気が後ろから追いかけてきた。盛大な音が響いて壁に何かの破片が飛び散った。水耕栽培の鉢だった。ハイドロカルチャーとも言い、土を使わないため、衛生環境を必要とする病院によく置かれている。

鉢に入っていた観葉植物のパキラが床に転がった。土代わり使われるレカトンと水も寝台まわりを汚す。呪水は巻き添えになり、器ごと消えていた。

ことごとく先手を打たれた葉室は歯噛みする。新しい策はもはや浮かんでこない。

「逃げろ、水野!」

妖の狙いは自分だ。水野は見逃してくれるかもしれない。最悪の事態だが助けを呼んでくれることを彼に期待した。

葉室はパキラを武器に立ち上がった。生身の人間である医師を攻撃するわけにはいかない。妖犬を狙える自信は皆無だが、無為に座すつもりもなかった。三つ編み状の茎を握り締め、妖犬に挑みかかる。

『無駄な抵抗を』

妖犬の舌が縦横無尽に躍った。武器を振るう間もなく、パキラの葉が丸裸になった。

『黙って……一緒に来るんだ』

「何?」

葉室は耳を疑った。妖らしからぬ言動だった。

奴らは人に取り憑くことを欲する。医師に憑依している妖犬は、もう別の身体を必要としないのはわかる。だが、葉室をどこかに連れて行こうとするのは理解できない。

『あの方が』

「矛」

妖が何かを言いかけたとき、突然パキラの茎が動き出した。茎の絡まりが解かれ、三つ叉の矛となる。葉室と妖犬がパキラに気を取られた瞬間、尖ったパキラの茎が妖犬を貫いていた。妖の粘液が飛び散り、黄色い目が色を失った。

葉室は部屋の入口に人の姿を認めた。

「鞭」

そいつは再び鋭く叫んだ。

葉室の手の中でパキラがしなった。刺し貫かれていた妖が医師の口から引きずり出される。体長一メートル程度の中型犬の塊。それがグチャリと音を立てて床に放り出された。

「間に合ったようだね」

掃除婦の格好をした女が悠然と入ってきた。

「あんたの仕業か」

妖の絶命に安堵する間もなく、葉室は身構えた。黒幕の登場だ。だが、仲間であるはずの妖を何故殺したのか。

「トゲのある言い方をするね。二度も助けてあげたっていうのに」

五十絡みの皺深い女の顔に微笑みが漂っていた。穏やかな表情の奥に凄味を感じ、葉室はたじろいだ。

「二度……あの槐か?」

葉室の頭の中でパキラと槐の枝が結びついた。

「ああ、そうだよ。あの子らが助けたいって言うから力を貸してやったのさ。お前さん、木々に好かれてるねえ」

ほほほと笑う姿はガラス越しに見たものと同じだ。あれは事故に遭遇してほくそ笑んでいたのではなく、葉室の身を案じたのだと思い至る。妖たちを仕向けたのは彼女ではないのだ。

葉室は災難をもたらした張本人と思っていたことを謝罪した。

「いいよいいよ。わざわざ説明するのも面倒だったし」

「おばちゃん、すげえな」

水野が床に座り込んだまま手を叩いた。

「なんだい、部長さんもいたのかい。拍手なんかしても、あたしゃおだてられないよ。そうだ、この際だからもう一度言っておくけどね。ゴミ箱に生ゴミはよしとくれ!」

彼女は外科部長室のゴミ箱に入っていたカップラーメンの容器のことを注意した。

「昨日は臭わなかっただろ」

「そうだね。なんだか知らないけど、いい匂いがしていた」

「マヌカってやつさ」

水野が葉室に顔を向け、彼は頷いた。

「この部屋も消臭できないかねえ。酷い臭いだよ、まったく」

臭いの元は床にぶちまけられた妖だった。妖犬の姿はすでになく、溶け崩れた粘液になっていた。

「あいにくマヌカは手持ちにない。……縁起は良くないと思うが、こいつはどうだ」

葉室は鞄から霧吹きを引っ張り出した。

「病室にこれはなあ」

「あたしゃ嫌いじゃないよ」

死者を弔う白檀の匂いが撒かれ、いくらか妖の臭気が緩和された。

「そのパキラをよこしな。うまくすればまた葉を出すかもしれないからね」

葉室は寝台の上に置いていたパキラを渡した。彼女は妖の汚れを拭き取り、濡らした新聞紙でくるんだ。

「さて、掃除を始めるよ」

「悪いな、おばちゃん。こんなにしちまって」

水野が両手を合わせて拝んだ。

「おばちゃんなんて言わないでくれよ。これでも千草静香って綺麗な名前があんだよ」

「綺麗って自分で言うか?」

葉室はどこかで聞いた名だと思った。


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