出会い
奴らは匂いに引き寄せられる。
千草馨は茶色の小瓶を手のひらで包んだ。紫外線を遮断するガラス瓶に体温が移る。蓋を開けると、ガラス製のスポイトがついてくる。先端の細い管の部分に液体が含まれていた。匂いの源である。
馨は匂いを確認した。濃縮されていた原液が空気に触れて鼻に届くと香りになる。
布切れにスポイトの液体を数滴垂らしてから、遮光瓶の蓋をしっかりと閉めた。布の濡れた部分を内側になるように丸める。両手で優しく包み込んで軽く揉む。手の中の空気が暖まった頃合いを見計らい、布の端を摘んで広げた。
香りが弾けた。
刺激的な芳香が朝靄を裂いた。
トップノートはクラリーセージ。スパイシーな香りの後ろで、甘みも感じられる香り。内気な男の子の口を饒舌にさせる精油である。
「さあ、いらっしゃい」
人気のない道路で、馨は呼び掛けた。
じわり。
耳の良い者なら聞こえる。そんな音。
アスファルトの表面に水が染みだした。空からの雨ではない。地面の下から液体が湧いていた。湿地帯に足を踏み入れたように、あるいは液状化現象が起こったように、道路は瞬く間に水浸しになった。
黒い。濁った水というよりは墨を溶いた黒色の液体だ。
黒い水は整備不良の車から漏れたオイルと混じり合う。雨上がりの路面に時折見られる虹が出現した。
馨は布切れをチェッカーフラッグのように何回か振った。レーサーたちは旗の合図でスタートを切るが、道路上の液体も彼女の呼び掛けに応じた。
いくつかできていた水溜まりが不気味に振動する。動き始めたのである。液体は液体でなくなり、粘りを帯びた流動体になった。そいつらは隣りに仲間がいることに気づき、お互いに引き寄せあった。四つが二つに、二つがひとつになり、数が減るごとに大きさが増した。粘りも強くなる。
側溝の蓋がガタガタと上下した。重いコンクリートを持ち上げたのは黒い粘液だ。アスファルトから浮かびあがってきた奴らと似ていたが、こちらははじめから粘性が強い。側溝の中で濃縮されていたのかもしれない。
粘液は七色に彩られた仲間を見つけると、勢いよく飛びついた。大きさは同じでも力の大小があるのか、たちどころに取り込んでしまった。
倍の大きさになったそいつはぷるぷると移動を始める。前よりも活発になっていた。虹の色も濃くなっている。
「こっちよ」
馨は数歩下がって、香る布を振る。ブーツの爪先を緩やかな坂の下に向け、十メートルほど歩く。その間にも七色の粘液は次々に仲間を吸収し巨大化していった。
人間ほどの大きさまで成長したそいつの背後に黒い液体、黒い粘液が続く。寄り添うように集まり、従うように重なる。すでに馨の身長を越えていた。
「集まったわね、怪」
馨は驚くことも焦ることもなく向き合った。
怪。
あやかしとも、もののけとも言われる存在である。人間や動物とは異なる生命体。ある神秘主義者は病気や怪我の原因は怪であると主張し、対峙した現実主義者は迷信、思い込みと切り捨てる。
どちらも正しい。
人の体内に怪が侵入すると体調が崩れる。熱を出す、咳が止まらないなどの疾病も起きる。細菌やウイルスに近い。
だが、怪が人間の目に触れることは極めて希だ。普通に生活していれば存在に気づくことはない。
人は肉眼で確認できない妄想を否定する。真実がなんであれ、認知できないことを事実とは受け止めない。知らないのなら、存在しないことになる。知るのはごく限られた人間だけだった。
千草馨は知っていた。怪が人間に害をなす存在であることを知っていた。特異な習性を持っていることも調べてある。だから奴らの好む精油の匂いで誘い出せる。
彼女は行動する。
怪を消し去る手段は把握している。何度かの経験で一連の流れも身につけていた。
馨は精油を染みこませた布を揉みしだいた。クラリーセージのスパイシーな香りが丸くなり、花の優しい香りが漂い始めた。
ミドルノート。
印象的なトップノートの次にやってくる芳香はラベンダーだった。辞書には薫衣草という日本名で記載されている。多くの人から好まれる香りのひとつだ。
彼女の調合した精油はクラリーセージとラベンダーのミックスが柱だ。
ラベンダーの香りは心に安らぎをもたらす効能がある。人間にも、そして怪にも、分け隔てがない。
虹色の怪がふるふると震えた後、大人しくなった。リラックスして眠ってしまったように見えた。
馨はベルトに吊しておいた霧吹きを握った。彼女特製のアロマウォーターが入っている。強い清浄作用を有するゼラニウムが主成分だった。
噴出口を怪に向け、指を引いた。
「除菌」
濃厚な香りが渦を巻いて飛び出した。希釈率を抑え、濃度を高めたアロマウォーターが怪の表面に覆い被さった。
虹色の膜が弾け飛んだ。
怪の身体はあやしく波打ち、縦に長かった身体が倒れて平べったく広がった。それでも馨の膝くらいはある。逃げようとする怪に、馨は容赦のないスプレー攻撃を加えた。
「逃がさないわよ」
除菌と口にしながらスプレーを振りかける彼女は楽しそうだった。
動きの鈍くなった怪は色も薄れた。虹色は消え、黒色も透明感が増してきた。巨大だった体躯も彼女の半分ほどに縮んだ。やがて拳大になり、消えてなくなった。
「お掃除完了」
馨は霧吹きをベルトに戻すと、大きく伸びをした。気づかないうちに緊張していたようだ。固くなった背中と肩をほぐしながら達成感に浸る。
「掃除だと。馬鹿なことを」
冷たい声が叩きつけられた。
「誰」
馨が驚いて振り返ると、坂の下に男がいた。手入れのされていないしわしわのコート姿。服装と同じで顔にも皺がある。四十から五十の中年だ。だが、睨み付けてくる鋭い目に凍てつく若さがあった。
「何よ」
威圧的な男の態度に馨は反感を抱いた。頭ごなしに文句を言われ、気分が悪くなる。その陰で不安を抱いた。
怪を見られたかもしれない。
いつからいたのか、まったく気づかなかった。馨が怪を退治する一部始終を見ていた様子がある。そうでないと出てこない科白だ。
「よけいなことをするな」
子供を叱るような言葉を残して、男は立ち去った。
馨は動けなかった。地面に縫い止められたかのように足が動かない。何も言い返せず、黙って背中を見送るしかなかった。
「なんなの、あいつ」
姿が見えなくなってから、ようやく怒りが湧いてきた。乙女が口にしてはいけないような言葉を飲み込んで、代わりにアロマウォーターを撒いてやった。人間には塩のほうが効きそうだったが、ゼラニウムの清々しい香りで勘弁してやる。
「あれは猫よね」
嫌な態度とは裏腹に、男が持っていた手提げ鞄には茶トラの子猫が顔を出していた。まともな飼い主はそんなところに猫は入れない。入れても逃げてしまうだろう。本物ではないのかもしれない。ぬいぐるみか人形だ。
「でも」
子猫が鼻を動かしていたのは見間違いだろうか。