わたしのみかた
少年は幸せの外側にいた。
拍手と歓声が鳴り響き、花弁が舞い踊る中で、少年はわずかに肩を震わせている。俯いたまま、決して顔を上げようとしない。
皐月は、再生され続ける動画を見続けていた。
今度こそ、彼の顔が見えるかもしれないと思いながら。
同じ動画が繰り返されているだけだというのに、その期待は消えなかった。
初めから動画に映り込む少年を見続ける生活をしていたわけではなかった。
動画を見る時間が増えたのは、実家に戻ってきたことで顕著になった。
対人関係で馴染めず、やがてはベッドから起き上がることができなくなった。
両親の死は、皮肉なことにきっかけとしては最適だった。
遺産と呼べるものは実家くらいしかなかった。自分の蓄えが多少ある程度で、それも一年とは持たないとわかっていた。
親族を頼る当てがあれば良かったが、付き合いは薄かった。地元でありながら、縁のない土地でしかなかった。
皐月に扶養者はいない。孤独であることを寂しいと思ったことはなかったが、出戻りと噂されるような境遇であることは自覚していた。
いずれは孤独死という末路を想像したところで、それも仕方のないことだと呑み込んでいた。
心が折れれば、身体も引きずられる。だったら、何もせず生きるだけの生活も悪くないと諦めがついた。
無気力に生きる自分に、今は療養中だと言い訳ができるようになったことこそ、治療の成果と言えた。
古い実家は、死ぬために誂えた棺のようだった。
***
仕事を探す必要がある。
皐月はスマホのアラームを止めながら、顔を洗いに向かった。
これまでの人生なら、すでに電車に揺られていた時間だった。ようやく、社会人から脱却できたのだという安堵が皐月の身体を重くさせていた。
食欲はなかった。
実家の片づけが済んでいない。数少ない荷物は、固く結ばれたままになっている。
かろうじて居間と寝室だけ掃除した。生活に必要な場所だけを切り取っただけだった。結局、マンション暮らしと同じ広さの生活圏に落ち着いてしまっていた。
スマホを持つ。反射的にメールを確認しようとする。ショートメッセージは来ていないかと不安になる。
大きく深呼吸をした。ベッドで横になり、求人サイトを開いた。
選り好みしている自覚がある。馬鹿みたいな話だ。
大手に就職した自負が、心にこびりついていることを自覚した。
求人を眺めていても気が滅入る。
皐月は動画サイトへと指を走らせた。
無駄な時間であるとわかっているものの、やめることも億劫になっていた。
無駄だからこそ必要ではないかという意味のない慰めが脳裏をよぎる。
垂れ流されていくショート動画を眺める。視聴しているというのに、感想が浮かぶことはなかった。
音と映像が次々と目の前に現れては流れていく。
電車旅でもして、車窓から外を眺めていたほうが随分とマシな光景だと思っているのに、映像が振出しに戻れば、次へ移った。
結婚式の映像だった。
新郎新婦が肩を寄せ合い、人々に祝福されながら歩いている。誰もが立ち上がって、拍手をし、歓声をあげている。様々な色の花弁が舞っていた。
皐月は言い知れぬ倦怠感に苛まれた。ベッドから這い上がる気力もなく、スマホから手を離した。
***
どれほど、ぼうっと天井を見つめていたのかわからない。そんな現実から逃れようと、皐月はスマホを手に取った。
指紋認証でロックを解除すると、動画が再生されていた。結婚式の動画だった。
アプリを閉じずにそのままで放りだしていたのか。
閉じようと指を画面に乗せたとき、映像が気になった。
数十秒の映像の中、丁度指先がふれた先に、俯く少年を見つけた。
少年というには少しばかり歳が上かもしれない。だが、成人しているわけではなかった。
彼の正面には和装の大人がおり、その少年の顔を認めることができない。
彼は真新しい濃紺のスーツに身を包んでいる。黒髪の隙間から見えた左耳は、血の気がなく、病的なまでに白く見えた。
少年にしては長い髪は顎まで伸びており、そこで綺麗に切りそろえられていた。
気になるなら停止させればいいのに――。
どうして自分は逆らわず、再生され続けるショート動画を眺めているのか。
皐月は指を離してシークバーをいじろうとしたが、そもそも表示されていなかった。説明欄やコメント欄も閲覧できない。ただ、数十秒の結婚式が再生され続けている。
皐月は指を弾いて動画をスワイプしたが、別の動画へ移らず、また同じ結婚式の動画が再生された。アプリの不具合に遭遇した経験はあるが、同じ動画が連続して再生され続けるなんて起こりうるのだろうか。
少年はじっと俯き加減で佇んでいる。
きっと少年は結婚を望んでいない。皐月にはよくわかった。彼は太ももの上で手を握り締めている。皺が寄り、裾があがるほどに力強く。
歓迎していないし、少年自体が歓迎されていない。
着させられているように感じたのは、スーツが新しい上に丈が合っていないからだ。
革靴だって、黒光りしているように見えるが、サイズはあっていないように思えてならない。
少年は動画の最後には決まって、当たり前のことであるけれど同じ行動をとる。
大人の影に隠れ、立ち去ってしまう。その瞬間に動画は初めに戻る。それはまるで、少年に逃げることを許さない意思の現れのようで、皐月は胸が詰まった。
少年は何を抱えてこの場にいることを強制されているのだろうか。どうしてそんなにも結婚を拒絶するのだろうか。
少年はこの場に居たくない。彼は望んでいないのに、着飾られている境遇だったのではないか。
彼は、新婦の家族なのだろうか。例えば、姉の結婚を容認できない。そう考えると子供らしい癇癪に思えてくる。だが、皐月には納得できなかった。そんな駄々をこねているようには見えない。そうだ、そのような感情論で自分の醜さを露呈させるほど、無垢で幼稚な子とは思えなかった。
社会人生活の記憶が体中を駆け回り、怖気と共に吐き気となって這い上がってくる。皐月は咄嗟に、スマホを放り出して洗面所に走った。
そうだ。あの少年は、私にそっくりなんだ。
皐月はその動画が気になった理由に納得をした。すると気が落ち着き、不気味さを感じながら結末のない映像のその先を考えようと好奇心が湧いた。
不思議な動画を見続けて、その果てに不幸が訪れる。そんなありきたりな出来事を体験しているかもしれない。
不幸になったところで死ぬだけならば、もはや苦労をかける親しい人がいないのだから――。
胸の詰まりが、少しだけ軽くなった気がした。
良くないことをしている。そう考える自分が、どこか別人のように身体の奥底からこちらを見上げている気分だった。
どこの誰なのだろうか。少年のことを思い、結婚式をあげる二人を観察してみる。
何かヒントになるようなものはないだろうかと動画を見続けたが、手がかりはなかった。
新郎は年嵩であり、新婦は若く見えた。歳の差があると判る程度だった。二人は寄り添い、恥ずかしくも嬉しそうに笑っている。
二人にとって、この式は予定された幸福のための儀式なのだ。
そこに少年の居場所はない。必要とされていないのなら無理に留まらなくてもいいはずだ。
少年の行動は何一つ間違っていない。いや、トイレに行くからと席に立つ程度には言い訳に事欠かないのだから、気負う必要だってありはしないはずだ。
少年は抱く必要のない悔恨か羞恥に悶え、苦しんでいる。
その心持を察することはできなかった。
皐月はこれまで深い人間関係を築けなかった。他人を信用することは、自分を曝け出す必要があって、それはとても体力のいることだった。
皐月にとっては少なくとも、結婚が重大な節目だという感覚がある。ただ、動画をネット上に公開とする行動を許容できなかった。
皐月には、少年も、目の前で繰り返される幸せな喧騒も、理解から遠い場所にある画面越しの出来事のはずだった。
何故、自分は少年に固執しているというのか。
理解できるという慢心や共感を多少なりとも感じていたものの、このおかしな状況を受け入れる感受性を持ち合わせていることに疑問を抱く。達観していた自分と、動画の中で誰かに執着する自分が結びつかなかった。
背筋が震えた。皐月は意識を取り戻したかのようにベッドから起き上がった。何もしていないはずなのに、疲労感に身体が押し潰されそうになる。
トイレに向かい、鏡を見た。
黒い隈のある目元。口元に唾液が滴り乾燥した白い痕。艶を失い束になった髪の毛。眉間にはニキビが並んでいる。
着ているシャツは何日着用していたのか。
皐月は震えながらも壁伝いに歩き、台所を覗き込んだ。
食器類がシンクへ置かれたままになっている。冷凍食品を食べた記憶が朧げに浮かんだ。
あれはいつだったか。今は、何日なのか。
皐月は血の気が引き、座り込んだ。自分は何をしていたのだろうか。
やはり、あの動画はダメなのだ。
皐月は這いつくばって浴室へと向かい、シャワーを浴びた。痛みすら覚える熱が、今は生きている喜びに震えているかのように皐月に活力を与えた。
スマホを新しくする。どうせ消しても問題のない連絡相手しか残っていない。そうすれば、少なくともスマホを扱うことに不便さはなくなるはずだ。
大丈夫。私は、大丈夫だ。死ぬために生きることくらいはできる。
皐月は、着替えと洗濯を済ませてから、台所でインスタント麺を食べ、食器類を洗って片づけた。テレビもなければ時計もない。カレンダーだってありはしない。
全て、スマホの中で十分だと思って捨ててしまった。
時間を把握することが苦痛だったから、皐月は断捨離したのだ。その判断が今となっては仇になった。
コンビニやスーパーに行けば日用品は揃う。
皐月は深呼吸して、頭をすっきりさせた。
――大丈夫。
何度目かの自己暗示を呟く。皐月は財布を握り締め、外に出た。
外灯が照らす夜の世界が、そこにはあった。
***
見知った家々が見え始めると、身体が途端に疲労を訴え出した。
暇をつぶそうとも考えたが、夜の街を出歩く勇気もなかった。
コンビニからの帰り道はいつもより暗く感じた。
帰宅すると、手当たり次第に電気をつけた。明るくなると気分も少しだけ上向いた。
買ってきた卓上カレンダーと置時計を机に置く。食材を冷蔵庫に入れ、ビールとおつまみを用意して食事をとった。
ふと買ったばかりの時計の音が気になった。時を刻み、自分は老いていくことを告げられているようだった。
普段なら食後はスマホをいじっていたが、今日ばかりは手持ち無沙汰になった。早々に食器を片付け終え、風呂に入ることにした。
廊下に出ると、花の香りが漂っていた。煌々と照らされている廊下に落ちていたのは、踏みにじられたように萎れた、一枚の薄いピンク色の花弁だった。
帰宅途中に咲いていた花が身体についていたのかと思った。
皐月は摘まみ上げる。萎れているように見えていた花弁だったが、触ると弾力があった。生花の瑞々しい香りが鼻をつく。
フレグランスを買えばよかった。皐月は香りによって心の落ち着きを感じていた。
湯船に浸かり、熱を身体にため込む。シャワーを浴びて髪の毛を洗う。
少しだけ鏡が気になった。怖いことがあったとき、どうしても行動や現象に不確かな怖さを覚える。
シャワーの音が、その飛沫が、時計の針が動く無骨な音とは違い、妙に生々しく聞こえた。
シャワーを止める。その音を似ていると思ってしまった。
そういえば、花弁の色は薄いピンク色だった。あれは、見たことがある。
皐月は浴室から飛び出して身体を拭き、荷解きをしていなかった衣装ケースから着替えを取り出した。
温まったはずだというのに、震えが止まらない。テレビも買っておけばよかった。今はただ、何か気を紛らわせる何かが欲しかった。
舞う花弁、まぶしい世界、鳴り響く拍手の音。
少年の姿が脳裏をよぎる。
彼の華奢な体つき――世の中の不条理に押し潰されそうになるのを、必死に耐えているかのように俯く姿。
自分は少年にとって希望の光なのではないか。それがたとえ良くないもの、障りのある呼び声だとしても、本当に悪いことなのか。
遠くで聞こえる拍手の音。あの音の向こう側で、少年は変わらず声を殺して泣いている。
寝室の扉は開いたままだった。スマホの画面が光っているのが見える。
近づいてスマホを手に取った。
結婚式の映像が流れていた。
皐月は僅かな安らぎを覚えた。そこにはまだ、少年がいてくれた。
***
怖いという気持ちが湧かなくなった。
ぼんやりと考えるのは少年の身の上だった。艶めかしいとすら感じるようになるほど見続けた少年の所作が、少しだけ違っていることに気づいたのも必然だった。
皐月は、少年を不憫に思う気持ちを紛らせることができなかった。
少年を隠していた大人の姿が消えている。色白の顔に、柘榴のような唇が固く閉じていた。俯いているのに、表情の機微が画面越しに伝わってくる。
彼は自分を見つめている。
少年がおもむろにこちらを向いた。握り締めていた指先がほどけ、スラックスの裾が元に戻った。
揺らめく栗色の瞳から、涙が零れ落ちる。
先ほどまでは一滴たりとも見えなかったのに。皐月は吸い込まれるように彼の足元を見た。落ちた涙の下にはちょうど花弁があった。水気を吸い取り、少しばかり跳ね上がった。
鼻腔をくすぐる花の香りが漂う。少年の鼻をすする音が耳に届く。
恨むでもなく、怒るでもない。その表情はただ、上目遣いにこちらを見つめている。
受け止めることができている今の状況は、とてもおかしいことだ。違う映像ではないかという思いがよぎった。だが、目を離して動画の説明やシークバーをいじろうとするも反応がない。次の動画にスクロールすると、同じ映像が初めから流れた。そして、少年の瞳とまっすぐに向き合うことになった。
映像が綺麗になっている。そう感じるほど生々しい色彩が画面に溢れかえっている。
新郎新婦はピントがずれ、映像から見切れている。少年がこの動画の主役となっていた。
何故、自分なのだろうと皐月は考えた。彼の顔立ちが見えているはずなのに、どういうわけか細部へ目が向かない。
そこにいることだけがわかる。誰からも認められず、ただ、自分だけが彼を見ている。彼はその視線に気づいていた。
泣いている少年は何も言わず、そこにいる。
どうして何も言わないのだろうか。
「――ねぇ、どうしてほしいの?」
聞こえているはずだ。
鳴り響く拍手が、壁越しから聞こえてくるかのように曇っている。寝室の隣に部屋はない。ただ、街が広がっているだけだ。
少年は縋りたがっている。自分だけが見つけた、彼の救いを求める声ではないか。
彼の涙は、自分を見つけたことによる希望を見たに違いないのだ。
「私も……誰かに頼りたいことがね。たくさんあったの」
本当なら喜んで騒ぎ立てたいに違いない。だというのに少年は健気に口を結び、ただじっとしている。
映像が再生されるたびに、少しだけ少年の姿が大きくなる。それはピントが合い、徐々に拡大されているようだった。
どんどんと音が遠くなっていくというのに、少年の姿は美麗さを増していく。
「私だけが、君を見つけられたの。もう、一人じゃないよ」
何十という再生を経て、少年の涙は皐月に向ける微笑へと変わっていった。
救われている。自分という存在が、彼の支えになったのだ。
自分にはできなかった。手を差し伸べてくれる人がいなかったから。だからこそ、自分だけは少年を見捨てない。
少年はじっと皐月を見つめ、意を決したかのように、震える指先を向けた。手が伸び、画面へ触れそうになる。
周囲に怯え、肩を震わせていた少年の姿はない。白皙の頬には、ほのかな赤みが差している。
彼は勇気を振り絞って、手を伸ばしたのだ。
自分はその思いに応えなければならない。自分だけが、彼を救済できる。
彼はずっと記憶に閉じ込められているに違いなかった。逃げ出したい。もう楽になりたい。祝福の中で、孤独であり続けた少年の記録は、ここで終わりを迎える。
皐月はそっと画面に指を這わせた。指先が震えている。それは互いに同じだった。その所作の繋がりに、皐月は思わず笑みを浮かべる。少年がはにかんだように見えた。
指と指が触れ合う。
皐月の指先に静電気のような刺激が走った。
画面に花弁が落ちた。むせ返るような花の香りが部屋を満たしていく――。
拍手が、煩い。




