二宮という男
あまりにもサラッと言われたので、ジンは耳を疑った。
「え……死んだ?」
「うん」
聞き間違いでないことが確定した。
「最初の違和感はベランダに洗濯物を干した時、なんか臭いと思ったんだ。小動物が死んで腐ったみたいな……でも排水溝に鼻を近づけても出所はそこじゃなくて」
結末が分かっているからこそ、余計に気味の悪い話だ。
「それから数日は何もなかったんだけど、スーパーに行こうと部屋を出たら廊下に腐乱臭が充満していて。あの臭いは強烈だったね」
「通報しなかったのか?」
「二宮さんが綺麗好きな人だったら通報してたかな。もともと汚部屋の住人だから、夏場で臭いが極まった可能性もあったし」
ジンとしては共感できない考えに、表情は青ざめていく一方だった。
「確信に変わったのはその翌日。道路にまで腐乱臭が届いてた。外から202の部屋を見上げると、窓が黒くてね。最初は黒いカーテンかと思ったら、大量のハエだったんだ」
怪談話に慣れている視聴者も、違った角度の気持ち悪さに阿鼻叫喚している。
「部屋に戻ろうと思ったら、202の扉にコンッ、コンッってハエがぶつかってた。しかも見たことない種類のバカでかいハエ。かがんで避けて廊下を進んだよ」
この場で涼しい顔をしているのは、春道だけだった。
「部屋の中は一切臭いが入ってこなかった。日本の建築技術には脱帽だね。それからしばらくして、管理会社の人が袖で鼻を塞ぎながら、202のインターホンを押して呼びかけてた。死んでるのは明白だったけど、そういうルールなんだろうね」
春道はそれらの様子を、ドアスコープで一時間覗き続けたという。
「管理会社の手で202の扉が開かれると、警察官の登場。部屋に入って『あーひどいなこれは……』とだけ言って出てきた。部屋の中からハエの大群が出てくる場面を想像してたけど、実際はそんなことなかったね」
「ほ、補足ありがとうな」
「二宮さんの遺体を確認したところで、男性二人と女性一人の警察官が登場して、その場で手袋やカバーを付けて着替え始めたんだ」
春道はその日のことを鮮明に覚えているのか、言い淀むことなくスラスラと喋る。
「部屋に入って最初に行ったのは、鍵探し。事件性の有無を確認するためかな」
春道は一人で納得して先を進める。
「『鍵ありましたー』って女性の声が聞こえて、ドアノブに差して実際に合うか確かめてた。後は部屋の中にあった現金を床に並べて写真を撮っていたね」
細かいディテールまで伝える様が、"創作一切なしの純度100%"という証言を確固たるものにしつつあった。
「中はゴミで埋まっていて、足場の確保が大変だったみたい。それからは部屋の奥に行っちゃって声は聞こえなくなった。
その間もドアスコープに顔を付けて観察している姿は、怪談とは違った恐怖がある。
「戻ってきた警察官は──楽しそうだった」
「は?」
「意外だよね。ハエの集った遺体を前にしても、和気あいあいとしていた。誰にも見られていないと油断したんだろうね、『〇〇さん一人で運べますよねー』とか『体育会系だから余裕だ』みたいな会話を笑いながらしてた」
「なんかイメージ違うな……」
「そうかな? 慣れたら何も感じなくなるのが、すごく人間らしいと思ったけど」
春道はこともなげに言った。
「結局、遺体袋は三人で運んでたね。部屋が施錠されるとまた廊下で着替え始めた。服に臭いとか付かないのかな?」
「どうだろうな……」
ジンは心底どうでもよさそうに返す。
「そうそう、隣人だからって事情を聴かれることはなかったよ。事件性がないと判断されたんだろうね」
「ということは自殺か……?」
「おそらく孤独死かな。二宮さん、夏なのにエアコンをかけている形跡もなかったし。熱中症で倒れてそのまま発見されなかったパターンだと思う」
話し終えた春道はコリをほぐすように首を回す。
「遺体が運び出されても廊下には腐乱臭が漂っていた。気にならなくなるまで一週間くらいはかかったかな」
ジンはそのエピソードに眉をひそめる。
「でも本当にきつかったのはハエだよ。202で繁殖したのが、毎日10匹くらい僕の部屋に入ってくるんだ。さすがに我慢の限界で、初めて管理会社に相談しに行った」
「直接乗り込んだのか? 勇気あるな」
「うちは不動産と管理会社が同じで、マンションから徒歩数分の場所にあったから。特殊清掃がいつ頃か聞いてみたら、お茶を濁されたよ。二宮さんは親族とうまくいっていなかったのかもね」
春道は「今のは勝手な憶測」と付け加えて続ける。
「ハエを対処してほしいとお願いしたら、その日のうちに業者が来て、郵便受けから部屋の中に薬を散布してくれた。完全消滅とはいかなかったけど、ハエを見る機会は激減したね」
春道の怪談には、直接的な恐怖は薄いものの、他の語り手とは違う生ぬるいリアルさがある。
「こういう時ってハエの駆除のために買った殺虫剤の代金、管理会社に負担してもらえるのかな?」
それは遅効性の毒のように拡散され、視聴者を虜にしつつあった。
「マンションの前で向かいの測量会社に勤める男性と会った。タバコ休憩中みたいで、煙を燻らせながら202号室を見上げていてね。気になって話しかけると面白い事実が発覚したんだ」
春道はそこが山場と言わんばかりに、わずかな溜めを作る。
「男性は10年以上勤務している中間管理職で、二宮さんをよく知っていたみたい」
マンションと測量会社は建物が向かいにあるだけで無関係。それだけの関係でよく知ってるのはおかしい。
視聴者が抱いた疑問に、春道はちゃんと解答を持っていた。
「普通は知りませんよね。じゃあなぜか……? 二宮さんは普通じゃなかったんですよ」
物語が新たな局面を迎えようとした今、編集スタッフにも力が入る。
「二宮さんを最初に見たのは10年以上前。挨拶は一切なくて、物静かな印象を受けた。それから数年が経ったころ、測量会社の方々はマンションの管理会社に異臭がすると苦情を言ったみたいなんだ」
「異臭ってまさか!?」
「盛り上がりに水を差すようだけど、腐乱死体じゃないよ」
ジンは残念のようなほっとしたような複雑な表情を浮かべた。
「原因は302号室のベランダに放置された大量のゴミ」
「302ってことは別人か」
「いや。当事者は二宮さんだよ」
「……は? だって住んでるのは202だろ?」
「二宮さんは放置した大量のゴミが原因で302号室を追い出された後、真下の202号室に移ったんだ」
あまりにも突飛な行動に、ジンは開いた口が塞がらなかった。
「い、いやいや……そんなことあるのか?」
「あくまで聞いた話だから。でも測量会社の人が初対面の僕に嘘を付く理由ってある?」
真っ当な意見にジンは何も言えなくなる。
「二宮さんも変だけど、住ませる方も相当おかしいよね。いくら空室が多くても僕なら絶対に断るけどな」
春道もお手上げの様子だ。
「特殊清掃は一週間後に始まった。溢れたゴミを廊下にザーッと出して作業するから、部屋に入れず図書館で時間を潰す羽目になったよ」
ジンは同情的な視線を向ける。
「それからは原状回復のための工事の音が続いてた。僕は別の場所に引っ越したから、その後は分からない」
「まあ賢明な判断だな」
「気味が悪いとかそういうのは一切なくて、駅近くは魅力的だけど家賃がネックでね。だから専門学校卒業を機に引っ越したんだ」
春道は姿勢を正し、「僕の体験は以上です」とカメラに向かって礼をする。
配信上では労いの投げ銭が飛び交った。




