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筑豊の宮本武蔵 東洋ウエルター級王者 ムサシ中野

作者: 滝 城太郎

今でこそ十連続KOなど珍しくもないが、浜田剛史が十五連続KO勝利を挙げるまでは、ムサシの記録、ムサシの記録と、誰かが十連続KOまで到達するたびに、ムサシ中野の名が引き合いに出されていたものだ。しかし、現日本記録保持者の浜田にしても東洋タイトルを奪取した一戦は判定勝ちで記録が途絶えたように、世界ランキングに入ると相手のレベルが格段に高くなり、KO率が下がるのが常である。後の世界チャンピオン藤猛をKOしたぺトランザを2度もKOした中野の強打は、認定団体数が4倍になった現代なら間違いなく世界を制していたに違いない。

 ムサシ中野こと中野勝也は昭和二十年二月二十六日、朝鮮の京城に生まれた。父親は警察官で祖父は朝鮮総督府の武道教官を務めていた。祖父の宗助は当時日本で四~五人しかいなかった範士十段の腕前を持つ剣道の達人で、中野一家が朝鮮に渡ったのは、その腕前を買われた祖父が総督府から武術指導の依頼を受けたことによるものだ。

 暮らしぶりのよかった朝鮮での生活から一転、終戦後、福岡県直方市に引き揚げた中野一家を待っていたのは貧困生活であった。三歳の時に母昌子を肺結核で失った一人っ子の勝也は親戚の家をたらいまわしにされる。父正勝は愛妻を亡くしてからというもの、酒で憂さ晴らしをするような日々を送っており、息子を養ってゆけるような状況ではなかったからだ。

 三重県四日市市東橋北小学校を振り出しに、直方市下境小学校、愛知県春日井市春日井小学校、同市牛山小学校と転向を繰り返した勝也は再び下境小学校に戻ってきた。しばらく直方に落ち着き、直方第一中学校を卒業後、三重県四日市工業高校定時制に入学する。

 直方で暮らしていた時分に中野が痛感したのは「この時代、剣道では飯が食えない」ということだった。それでも代々武芸に秀でた家系だけに、武道には関心があったようで、高校では柔道部に入部した。   

 武道のセンス抜群の中野は柔道を始めてわずか半年で初段を取得したが、試合中にキャプテンが首の骨を折って死ぬところを見たことですっかり怖気づいてしまい、早々に柔道からは足を洗っている。

 代わりに空手道場に通い始めるものの、主目的は精神修養であって、社会人チームやプロの格闘家への道が開けているわけでもなかった。そのうち中野家再興のためにも、一攫千金のチャンスがあるプロボクシングで身を立てるしかないと思うようになった。

 昭和三十六年、高校二年の時、TBSが主催したボクシング教室に応募しようとしたが、同居していた伯父夫婦の反対で断念。赤木圭一郎主演の日活映画『打倒ノックダウン』の影響でアクションスターに憧れ、日活ニューフェイスに応募したこともあったらしい(これは落選)。

 本格的にプロを目指すようになったのは、四日市市在住の元ボクサー荒木武雄と知り合い、ボクシングの手習いを受けた高校三年の時である。面白半分にアマの試合にエントリーしたところ、三戦三勝(三KO)の好成績を挙げ、プロになる踏ん切りがついたのだ。

 昭和三十八年、高校四年の時に定時制高校を中退し上京。笹崎ジムに入門したのは七月一日のことだった。笹崎ジムを選んだのは職場から近いことと、テレビのボクシング中継でもお馴染みの海津文雄やファイティング原田がいたからだ。

 笹崎会長が「一目見た時からセンスの良さを感じた」という中野は、剣道の下地があるため右足を前に出した方が構えが自然になるという理由で、右利きでありながらサウスポースタイルにコンバートされた。いわゆるコンバーティッドサウスポーである。これは破壊力のある右をリードパンチに使えるという利点はあるものの、右利きを左利きに変えるというのは容易なことではなく、成功例は少ない。しかし、柔剣道に空手の下地がある中野はサウスポースタイルも器用にこなし、入門からわずか二ヶ月足らずでプロテストをパスしてデビュー戦のリングに上がっている。

 すでに二十戦の実績があるベテラン相手にダウンを奪う快勝で初陣を飾ると、早速笹崎会長から内弟子の声がかかった。家出同然に上京してきた中野にとって、ジムが衣食住全ての面倒を見てくれる内弟子への昇格は願ったり叶ったりだった。ボクシングだけに打ち込める環境が整ったおかげで、デビュー一年足らずで十一連勝(六KO)三引き分けと快進撃を続けた。

 初黒星を喫したのは九月十七日の中山哲雄戦だった。後にライト級日本ランカーとなる中山の技巧を打ち崩せなかった中野は、十二月二十八日の東日本新人王決定戦でも再び中山に屈してしまう。

 新人王候補の最右翼と目されていただけに、この敗戦のショックは大きく、本気でボクサーを辞めようとまで思いつめたらしい。これで自信を喪失したのか、しばらくは冴えない試合が続き、なかなかメインエベンターに上がれずに足踏みを続けていたが、昭和四十一年十月二日、世界ウエルター級八位の強豪フェル・ペトランザ(フィリピン)を最終ラウンドに劇的KOで仕留め、再び注目を浴びる存在となった。

 ペトランザは去る六月五日、「ハンマーパンチ」で人気急上昇中の日本J・ウエルター級チャンピオン、藤猛をボディブローでナックアウトしたハードパンチャーである。ここのところ六連続KO勝ちを収めて好調とはいえ、十回戦は一度しか経験のない中野にとって、後に世界チャンピオンになった藤に生涯唯一のテンカウントを聞かせた世界ランカーは明らかに荷が重かった。中野自身も「うまくいって引き分けられたらと思ったくらいで、正直とても怖かった」と述懐している。

 試合は中野がアグレッシブに攻め序盤から優位に立っていたが、時折クリーンヒットするペトランザのパンチに一瞬棒立ちになるシーンもあり、最後まで予断を許さなかった。最終ラウンドは打ち合いになり、終了間際の二分二十二秒、カウンターの右一発で難敵をマットに沈めた。

 笹崎会長が「これほどの右強打はジムを開いて初めてだ」と絶賛する中野の右強打は、ジムで兄貴と慕う元東洋ミドル級チャンピオン海津文雄をも凌ぐ。それだけに、右さえ当たれば中量級のボクサーはひとたまりもないはずなのだが、お守りをたくさん携えたりゲンかつぎをしたりと、中野には非常に神経質なところがあり、リング上で実力をフルに発揮することが少なかった。そういう意味ではデビュー戦といい、ペトランザ戦といいダメ元の相手の方が無心で戦えたぶん、本来の格闘技センスを発揮出来たのかもしれない。

 この試合で七試合連続KO勝利の日本記録に並んだ中野は、十一月十三日、東洋J・ウエルター級十位のエディ・ケーンテ(フィリピン)を二ラウンド三十秒でナックアウトし、日本新記録を樹立した。昭和十一年にピストン堀口が記録した七連続KO勝ちは、過去に青木勝利、関光徳、岡野耕司の三名が並ぶも誰も抜き去ることは出来なかったが、三十一年後に中野によってようやく更新されたのだ。ちなみにこの試合がリングネーム「ムサシ中野」のデビュー戦であり、記念すべき世界ランキング入りもムサシ中野のリングネームで果たしている(十二月三日付)。

「ムサシ」はもちろん宮本武蔵にちなんだもので、右でも左でも倒せる中野の強打が二刀流をイメージすることから笹崎会長がこう名づけたのだ。剣道一家の中野にぴったりのネーミングである。


 日本人ボクサーでこれまでにウエルター級以上で世界ランキングに入ったのは、川上林成(ウエルター、J・ミドル)一人だけである。藤猛(米国籍)も中野より一足先にJ・ウエルターの世界ランキングに名を連ねているが、ジュニアの付かない正式階級とは重みが違う。川上が世界に挑戦することなく引退したとあって、ボクシング界の中野にかける期待は否が応でも盛り上がった。

 亡き祖父宗助の経歴が再評価され、生れ故郷の福岡県朝倉郡田主丸町に石碑が建てられたのは、中野の名が全国区になったおかげである。ボクシングで名をあげて中野家のことを全国に知ってもらいたい、というデビュー当初からの目標はここに成就したのだ。


 勢いづいた中野は年明けの昭和四十二年一月八日、東洋ウエルター級タイトルに挑戦する。

 東洋人唯一のウエルター級世界ランカーにとって、東洋チャンピオンのアピデス・シチラン(タイ)は単なる通過点に過ぎなかった。中野の右は三ラウンドにシチランを二度マットに叩きつけ、余裕のKO勝ちで東洋タイトルを奪取した。

 こうなると俄然期待が高まるのは東洋J・ウエルター級チャンピオン藤猛とのライバル決戦である。二人は二ラウンドのスパーリングを経験しており、手応えを感じていた笹崎会長と中野は藤との対戦に乗り気だったが、藤の所属するリキジム側が世界戦を優先したため、ファン垂涎のドリームマッチの実現は叶わなかった。

 当時の試合予想は中野に好意的だった。一発の破壊力なら藤のハンマーパンチに分があるが、藤のベタ足で中野を捕らえられるかが問題だった。逆に左右どちらでも倒せる中野は一階級上のボクサーで、藤を破ったペトランザをKOしているという強みもあり、不用意な打ち合いには応じず、カウンター狙いでじっくり戦えば、スタミナ面に難がある藤の方が不利、という予想の方が多かった。


 その後中野はノンタイトル戦を挟んで、東洋タイトル初防衛戦でフィリピノ・ラバロ(フィリピン)を八ラウンドKOで下し、連続KO記録を十二まで伸ばす。もはや東洋圏では目ぼしい相手はいなくなったため、世界獲りを目指す笹崎会長が次に選んだ相手が世界五位のアーニー・ロペス(米)だった。

 ネイティブアメリカンの血を引くロペスはアメリカでも人気のある好戦的なファイターで、打撃戦を望む中野にとっては格好の相手と言えた。この時点で世界ランキング三位の中野がロペスに勝てば、世界チャンピオン、カーチス・コークス(米)への挑戦も現実味を帯びてくる。

 ところが中野の身体には本人がほとんど自覚できない病魔が忍び寄っていた。先の防衛戦では、初回から再三ラバロからダウンを奪いながら詰めが甘く、逆にアッパーの連打を浴びて防戦一方になるシーンも見られた。東洋ランキング下位のラバロにこれほど手こずったのは、初防衛戦という緊張感や、単なる不調という理由ではない。

 この頃から原因不明の頭痛や耳鳴りに時折見舞われていたのは、後に主治医から引退を勧告される要因となった脳波の異常によるものだった。軽微であるがゆえに日常生活に困難をきたすわけでもなく、リング上で突然の頭痛に見舞われるようなこともなかったため、本人もそれほど気にはしていなかったが、研ぎ澄まされた反射神経を必要とするボクシングという競技では、その影響は少なくない。微妙に身体の反応が鈍くなってきたからこそ、会心の一撃でKO出来ず、不用意なパンチをもらうようになっていたのだ。

 八月八日、原田がジョフレに勝ったゲンのいい愛知県記念体育館において、世界選手権挑戦者決定戦と銘打たれ たムサシ中野対アーニー・ロペス戦が火蓋を切った。

 中野は第一ラウンドから得意とする伸び上がるようなリードの右フックを叩きつけていったが、ロペスの右ストレートがカウンターで入り、早くもバランスを崩して尻餅をついてしまう。判定はスリップだったが、試合後中野が認めているように明らかなダウンだった。

 この一撃が全てだった。いつもならサウスポースタイルからのオープニングブローの右ロングは命中率が高く、これで意表を突かれて動揺した相手につけこんでゆくのが中野の勝ちパターンだったが、この日はスピードがなくロペスから動きも読まれていた。

 そもそもロペスのような長身でリーチの長いアップライトスタイルのボクサーと対峙する場合、サウスポーは右を出す時に左からのカウンターを警戒するのが常識である。ましてや体調不良でスピードが乏しい状態で大振りのパンチを出せば、こうなることも予想できていたはずだ。

 しかし、連続KO記録による自信が過信となり、ランキングも格下の相手なら力でねじ伏せられると踏んだのが仇となった。

 ロペスのカウンターの右ストレートはその後も面白いように決まり、中野は右が出せなくなった。左右にKOの威力を秘めた中野も、フィニッシュブローの右が封じられたことで完全に舞い上がってしまい、三ラウンドにロペスの集中打でKOされてしまった。

 

 絶対に勝てると踏んで組んだ試合だけに、笹崎ジムの失望感は大きく、会長以下四名のトレーナーが全員丸坊主になって中野のふがいないKO負けをファンに詫びるという事態になった。まだ二十二歳の中野は再起を誓い、五連勝(四KO)と再びKO街道を歩み始めたが、格下相手にもどかしい試合が続き、かつての豪快さは次第に影を潜めていった。

 昭和四十三年十月二日、ノンタイトル戦で東洋四位の南久雄に大差の判定で敗れた時、ファンも中野自身も限界を悟ったに違いない。不器用な南からダウンまで奪われた中野は全く防御勘が衰え、KOを免れるのがやっとだったからだ。ロペス戦後の静養で一時的に回復していた脳波の乱れが再発した中野は、ここで潔くリングを去る決意をした。

 最後の試合は昭和四十四年二月二十六日、フェル・ペトランザを迎えた四度目の東洋タイトル防衛戦だった。

 これが最後と心に決めてリングに臨んだ中野はパンチも的確でペトランザもたじたじだった。四ラウンドには右一撃で鮮やかなKO勝ちを収め、「これで中野も自信がついたと思う。まだまだやれるはずだ」と笹崎会長を喜ばせたのも束の間、その後、突然の引退発表を行い世間を驚かせた。

 いくら現役の東洋ウエルター級チャンピオンといっても、パンチのダメージで網膜震盪症まで煩っていてはこれ以上競技生活を続けることは危険である。

 中野が引退を意識し始めたのはロペス戦だった。

 無様な負け方をした中野は、もう身体が言うことをきかなくなっていたこともあって、この辺で潔くグローブを吊るして、自分以上のハードパンチャーを育てるために後進の育成に専念するつもりでいたという。

 とはいえ本人は辞める気でも、東洋チャンピオンという肩書きは健在である以上、重量級トップクラスの人気を誇る中野が稼ぎ出すファイトマネーと視聴率を考えると、そう簡単に周囲が引退を認めてくれるはずもない。

 何より、敗北の要因として大舞台での「気の弱さ」を指摘する意見が多かったことがプライドの高い中野には我慢ならなかった。辞める前に「気の弱いチャンピオン」というレッテルを払拭してから有終の美を飾りたい、という思いが現役に踏み留まるモチベーションとなったのだ。

 二十四歳の誕生日をKOで飾った中野が笑顔でリングを去っていったのは、ようやく会心の勝利を飾ることができ、達成感に満たされたからだろう。


 引退と同時に笹崎ジムのトレーナーに就任すると、同年十一月に結婚し、翌月には東京都日野市にムサシボクシングクラブを開いて独立した。すでにサラリーマン生活を送っていたジムの先輩海津文雄(元東洋ミドル級チャンピオン)が特別トレーナーを引き受けてくれたことで、かつての日本重量級ツートップによる和製ハードパンチャー育成計画がスタートすると、J・ライト級の小林光雄、ウエルター級のターザン桃原の二人が新人王を獲得するなど順調な滑り出しを見せたが、マネジャー、トレーナー、時にはプロモーターと一人三役を務めているうちに無理が祟って精神的に病んでしまった。

 家庭を顧みなかったことで妻との不和が決定的となり、離婚を機にジムを閉鎖することになった。ジム設立から十年目のことだった。

 愛弟子たちを他のジムに引き取ってもらったことに対する自責の念が強かった中野は、元ボクサーの山口養治が経営する山一物産でサラリーマン生活を送った後、ジムの再開を果たしたが、第二のムサシを世に送り出すことなく五十一歳の若さで亡くなっている。 生涯戦績 三十五勝五敗(二十四KO)三分

昔、ウエルター級の六回戦ボーイの知り合いがいた。そこそこのハードパンチャーだったが、ガードが甘く、メインエベンターにはなれなかったが、プロと殴り合っていると、素人なんて何人いても全然怖くないと言っていた。仮りに素人のパンチがまともにヒットしても、全然平気なので、殴られても殴られても一人ずつ始末をしてゆけば、十人くらいまでなら大丈夫なんだそうだ。そう考えると、ムサシのパンチは素人には見えず、少々の大男でも一発で夢落ちだっただろう。喧嘩が日常茶飯事だった炭鉱華やかなりし筑豊育ちだけに、その凶器のような鉄拳を振るえば、別の世界で一家を成していたかもしれないが、よほどの自制心の持ち主だったのだろう、中野はボクサーにありがちな腕白エピソードとは無縁の男だった。逆に真面目すぎるがゆえに、人生は不器用な生き方しかできなかったのかもしれない。

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