日本国は手を抜けない(蛇足:空母「ふよう」の生涯)
空母「ふよう」は日本国海上自衛隊が運用した、元米国海軍エセックス級航空母艦十番艦「タイコンデロガ」である。
米国に於いて「SCB-125A」と呼ばれる大改装(過剰な対空兵装の撤去、エンクローズド・バウ化、アングルド・デッキ化、全エレベーターの舷側配置化、カタパルトを蒸気式に変更、アレスティング・ギアをフォレスタル級と同等に変更)、を受けた後、昭和三十年(西暦一九五五年)日本国に売却・自衛艦「ふよう」として就役した。
就役直後の昭和三十一年(西暦一九五六年)には第二次中東戦争に従軍し、スエズ運河を占領するイスラエル・フランス連合軍と交戦しこれを撃破。
昭和三十五年(西暦一九六〇年)に勃発した第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)では緒戦に於いてベトナム・フランス・ソ連連合軍とトンキン湾で交戦しこれを撃破するも、艦載機が釣り出されて空になった所に対艦ミサイルを叩き込まれて大破炎上(通称「空鍋事件」)。幸い所属機は僚艦(同型艦「れいせん」「でいご」)に収容されたものの、本艦は日本本土での修理による長期離脱を余儀なくされ、昭和三十八年(西暦一九六三年)末に漸く戦列に復帰。米国から供与された新型機(F-4EJ)を運用し、昭和四十一年(西暦一九六六年)の和平協定締結まで、トンキン湾での哨戒任務のローテーションに入る。
戦後は昭和四十九年(西暦一九七四年)に後継艦(「しょうかく」型「しょうかく」)が就役すると、練習空母に種別を変更。以後、昭和五十五年(西暦一九八〇年)まで一貫して練習空母として余生を全うし、除籍。
翌年、モスボール保管されていた所を記念艦「ふよう」として神戸港に保存が決定され、移動。現在も同地で往年の海上自衛隊の姿を示す博物館として現存している。
ふよう型航空母艦諸元
・全長:二百七十三メートル
・全幅:五〇メートル
・基準排水量:三万三千トン
・満載排水量:四万三千トン
・主機:蒸気タービン三万七千五百馬力×四基=十五万馬力
・速力:三〇ノット
・兵装:なし(改装時の重量増により全て撤去。艦載機及び僚艦による防護で対応)
・艦載機定数:F-4EJ×二十四機(※最大三十六機まで運用可能、F-14Jの着艦・発艦試験を行ったこともある)
・同型艦:「ふよう」「ほうせん」「れいせん」「でいご」