日本国は手を抜けない(蛇足:原子力行政の章)
日本国の原子力行政が本格始動したのは、極東戦争による惨禍、核攻撃による放射線被害が世に広く知られる様になってからのことである。
放射線被害、いわゆる「被曝」について、東側世界は殊更に自らも核攻撃を行ったことは棚に上げる形で、核兵器の非人道性を強調するプロパガンダの一つとして大々的に各国社会に広め、西側社会の核戦力整備を社会的に扼そうとした。そうした動きは西側社会を「賛核」と「反核」に二分し、一定の歯止めを掛ける切っ掛けの一つになる一方で、「全方位アンチ核兵器」の人々を生み出す原因ともなり、諸刃の剣となって特に理由のある批難が東側世界、分けてもその唯一の核兵器保有国であるソ連を襲ったのであるが、完全な自爆であろう。
核兵器が齎す惨禍、そして超大国が形振り構わなくなれば、他国領域内でも容赦無く核兵器を使用するという現実を目の当たりにした日本国は、慌てて放射性物質、放射線機器の管理厳格化、そして核兵器生産へと繋がる核動力機器の国内規制の制定を急いだ。
また同時に、米国との核兵器共有(飽く迄もこの枠組みで共有される核兵器は米国製であって、その管理・使用には米国の支援と同意が必要であり、日本国自ら核兵器を製造し米国と共有するという政策ではない)という形での核兵器保有・使用能力の獲得に踏み切った。これは核兵器の製造を行わない(ただし、核兵器の製造能力を有さないという意味ではない)、という規制を日本国自身に課すと共に、「米国による日本国内での核兵器の使用には、日本国政府の同意が必要」という規制を米国にも課すという効果があった。
それが本格始動したのが、法案が施行され、環境資源省傘下に原子力規制庁が立ち上げられた、昭和二十八年(西暦一九五三年)七月一日のことであり、それと同時に秘密裡に進められていた核兵器運用能力の実戦証明が両シナ海に於いて行われたのが、同七月二〇日のことであった。
核兵器の保有が先行した原子力行政であるが、核動力機器、即ち原子炉の開発については、昭和三十一年(西暦一九五六年)に茨城県東海村に特殊法人日本国原子力研究所が設立されたことから始まる。
同研究所による国産原子炉の設計・開発は、慎重に進められた。
日本国は自然災害、特に地震・津波・台風の多発地帯であり、これが原子炉を襲って放射性物質が拡散してしまった場合の惨禍は、人口に対する国土面積からすると他国とは比べ物にならない恐れがある。このため、原子炉には非常に堅牢かつ受動的で、放射性物質を封じ込め易い設計が求められ、設計・開発開始早々に、原子炉燃料を冷却した一次冷却材から発生した蒸気を直接タービンに導いて発電を行う沸騰水型軽水炉は、安全面から国内規制を制定して製造・設置が禁じられた。また火災時に消化困難であることなどから、黒鉛減速炉やナトリウム冷却炉も同様に諦められた。
本命中の本命となったのは、加圧水型軽水炉であった。この形式は蒸気発生器という複雑な配管が行われた熱交換器や、そこに加圧水を通す複数台のポンプなど、構造に起因する保守性という点では沸騰水型軽水炉に劣るが、炉心上部から挿入する構造の制御棒や、炉心を循環する一次冷却剤が炉心を浸し続け易く、傾きや振動に対し安定性が高いことから、船舶――特に長時間・長距離を空気の補充無しに航行することが要求される、潜水艦の様な特殊な軍艦――向きであることも、推された要因の一つである。
運転すればするほど(兵器転用可能な)プルトニウムが増殖することはマイナス要因の一つではあったが、同研究所は核燃料再処理によりプルトニウムを燃料に再加工・再使用するプルサーマル方式で、高レベル放射性物質の量を減らすという、原子力政策で立ち遅れた国としてはかなり野心的な計画を立てた。プルトニウムを燃料に再加工・再使用可能な状態にすることが可能な再処理工場を建てることは、核兵器の製造に転用可能な施設を建設することと同義であったが、そこは国際原子力機関(IAEA)の査察を定期・不定期(抜き打ち)を問わず受け入れることで、周辺諸国の懸念を払拭するものとした。
また原子炉の設計自体も、米国の技術協力により提供された設計図を元に、原子炉の(非常)停止時の受動安全性に配慮した冷却装置や非常注水装置、操作系の人間工学的な最適化、当時としては非常に過大と言われた程の強固な耐震設計、地下・地上・建屋上階・高台に設置された非常棟の四重系統もの非常電源・非常発電機の設置など、考えられる限りの安全性への配慮が行われた。
当初、慎重に慎重を重ねる様な具合で進められていた、国産原子炉の建設計画であるが、風向きが変わったのは第二次中東戦争、そしてそれに続く第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)が勃発してからである。
この二つの戦争に於いて、中東から続く石油の安定供給に必要なシーレーンを脅かされた反省、そして国内的にも問題となっていた公害対策という側面から、環境資源省が音頭を取って、全国的なリサイクル・省エネ化政策が推し進められた。
これはどちらかと言えば、米国の軍門に降り大量消費社会を覚えた日本人が、第二次世界大戦前後の資源に窮した時期を蘇らせたという面の方が大きいが、ともあれ(廃金属)資源の回収・再生を義務付けられたリサイクル法はそれなりに不評であったが、公害である煤煙の原因でもある石油・石炭の燃焼量抑制の為の(石油を消費しない)原子力発電、という方針は、大多数の国民の理解を得て大々的に進められることとなり、昭和三十八年(西暦一九六三年)十月二十六日になって漸く、東海村に設置された第一号炉(東海原子力発電所一号機)の稼働に漕ぎ着けた。
そしてこれを皮切りに、北海道は泊、浜益、東北は大間、大関、東通、女川、福島第一、福島第二、浪江・小高、関東は東海第一、東海第二、北陸は柏崎刈羽、巻、珠洲、志賀、東海は浜岡、芦浜、関西は敦賀、美浜、大飯、高浜、香住、日置川、久美浜、中国は上関、四国は伊方、蒲生田、窪川、九州は川内、串間の三十発電所に計百三十九基もの原子炉が耐用年数四十年の設計で、西暦二〇〇〇年までに建設が行われ竣工し、「原子力列島ニッポン」と号された計画を完遂。日本国の総発電量に占める原子力発電の割合は、六〇パーセントにも達した。
なお、後に巨大地震が日本列島を襲った際にも、各原子力発電所で規定以上の揺れを感知したものは全て自動的に非常停止が行われたが、過酷事故を起こした原子炉は一つも無いまま、新設計の次世代原子炉や核融合炉へ取って代わられていったことを付記しておく。