ババリア夫人のマナー講座
「リヒト卿、また顎が下がっています。まっすぐ前を向いて、胸を張って歩きなさい」
「はい……」
「返事に覇気がございません。小さすぎず、大きすぎず、穏やかでありながらはっきりと」
「はい」
学園の休日、リヒトはババリア夫人からマナーの授業を受けている。私の時とはあらゆる部分で違うけれど、ババリアがはりきって教えているのだけはよくわかった。
リヒトも緊張してはいるものの、マナーの勉強には真剣に取り組んでいる。彼は記憶力もいいのですぐに覚えられるだろう。
「大変素直で努力家でいらっしゃいます。私が完璧な紳士にしてさしあげますから、自信をお持ちになって」
「はい」
リヒトが指導を受けている傍らで私もまた勉強をしていた。現在、学園にはバルナムーンの留学生がやってきているので、あちらの国について書かれている資料などを読んでいる。
対面しながら思っていたことだが、やはりこちらの国とはかなり文化も常識も違う。バルナムーンは海に面した国で、別の大陸との交易も盛んであり、かなり賑わった国のようだ。私も海は見たことがないので非常に興味がある。海にもオーガはいるだろうか。
「せっかくロメリィ嬢もいらっしゃるのですから、ダンスの練習もいたしましょう」
「え……」
「お二方は結婚をなさるのでしょう? ならばロメリィ嬢のパートナーは、リヒト卿以外にいません。ロメリィ嬢のダンスの力量についていけるようになるにはかなりの練習が必要になりますよ」
私はダンスが上手いという人間を見て覚えたのだが、通常は体を動かしながら覚えていくものらしい。ドレスを着ている人間の足さばきをしっかりと観察するのはなかなか難しく習得には時間がかかったのだが、ババリアがあきれたように「三日で完璧にダンスを覚えることを時間がかかったとは言いません」とつぶやいていたのが懐かしい。
「では、私も着替えてまいります。リヒトの手本にならなければなりませんから」
「ええ、ではそれまでリヒト卿へ軽く手解きを」
リヒトに教えるならば動きやすく、そして彼が見て分かりやすい服装がいい。その要望を着替えを手伝う侍女に伝えると、戸惑われた。
「本当にその服装でよろしいのですか……?」
「ええ。リヒトの手本になるためですから」
「まあ……愛ゆえですのね。それならば致し方ありませんね……!」
何故か急にやる気を出した侍女たちに手伝われ、身なりを整えられ、着替えを終えた。いつも通り彼女たちは私に「よくお似合いです」と誉め言葉を掛ける。これも彼女たちの仕事のひとつなのだろうけれど、今回ばかりは少し、普段と質が違うような気がした。
「ああ……本当によくお似合いです」
「なんて凛々しい……いったいどこの貴公子が現れたのかと思いました」
どことなく惚けたような顔つきでうっとりと見つめられて今度は私が困惑することになった。
まあとにかく着替えは終わったのでリヒトとババリアの待つ部屋へと戻った。私の服装を見て、ババリアはすぐに「まあ!」と声をあげ、常に持ち歩いている扇子でぴしりと私の足元を指す。
「何故男性の服を着ているのですか!?」
何故も何も、男性役を踊ってリヒトに教えるつもりだからである。だからこそ男性服、つまりズボンの服に着替えたのだ。
ドレスのままでも踊れなくはないがそれでは足さばきが分かりにくい。リヒトの教育についてはあまり人を呼べない状況らしくダンス講師はおらず、男女どちらの動きも完璧にマスターしている私が教えるということになっているので、何も間違ったことはしていないと思う。
「こちらの方がリヒトも分かりやすいと思いましたの。私が男性役を踊りますから、夫人には女性役をお願いいたします。良い手本になりますでしょう?」
「そっ……それはそうですが。しかしロメリィ嬢、淑女が男性の恰好をするなんて本来ならあるまじき行為ですからね。リヒト卿の境遇が特殊だからこそ、今回は見逃しますけれど、よろしいですか? 淑女とは――」
ババリアからかなり長い説教をうけることにはなったが服装の許可は出た。結局許可を出すならそこまで長い説教をしなくてもいいのではないか、と思わないでもない。
彼女がようやく一息を吐いたため、私は静かに動向を見守っていたリヒトへと近づいた。
「リヒト、私が手本となります。よく見ていてくださいね」
「ああ。……ロメリィはどんな服を着ても似合うしカッコイイなぁ……」
嬉しそうに、ふんわりと笑って褒められて悪い気がするはずもない。私もにこりと笑い返したところでババリアから鋭い指摘の声が飛んできた。
「リヒト卿! 言葉遣いも表情も紳士らしくございませんよ!」
「はい……すみま、いや……申し訳ありません」
「まったく、惚気るのは授業の後にしてくださいまし」
「……惚気ていましたか?」
私とてリヒトとは恋人らしく振る舞いたい。もっと抱きしめたり抱き上げたり、至近距離で見つめ合って彼に対し思いつく限りの褒め言葉を囁き、感じている愛情を伝えたいと思っている。
しかしそれは貴族らしくない振る舞いだとも理解しているので、二人きりでないかぎりやらないようにしているのだ。それでも惚気ていることになるのだろうか。
「……自覚がありませんの? 学園でのお二人が心配になってまいりました」
……これで惚気ていることになるなら、私たちは人前で常に惚気ていることになりそうだが、説教が長くなりそうなので黙っておくことにした。これからはもう少し発言に気を付けようとは思う。
これ以上深堀りされないうちにさっさとダンスの練習を始めてしまおうとリヒトとアイコンタクトを取った。彼は無言で魔力で動く楽器の元へと進み、己の魔力を流し込む。それを確認して私はババリアの前で一礼した。
「ババリア夫人。私と一曲お願いできますか?」
「……ええ、よろしいでしょう」
ダンスの誘い方もまた礼儀作法の一つだ。リヒトの手本になるため、指先まで神経を張り巡らせ、男性役としてババリアをリードしつつ最後まで踊りきった。
何故か踊り終わった後、とても満足そうな顔をしていたババリアは軽く咳払いをして扇子を広げ、口元を隠す。
「……ロメリィ嬢ほど踊れる男性はそういません。リヒト卿、参考になりましたか?」
ババリアの問いに、リヒトはまっすぐ私を見つめながら答えた。夜空に浮かぶ星々が輝くように、キラキラとした瞳で、うっとりとして。
「……ロメリィは綺麗だなぁ……」
「リヒト卿!」
そして彼女の長い説教は再び始まった。リヒトの貴族としての道は、まだまだ始まったばかりである。
海にオーガはいないんじゃないかな…。
男装の麗人になったロメリィ。なんだかんだロメリィの奇行を許容し始めているババリア夫人も大分非常識に慣れてきた気がしますね。




