1話 聖女様に身バレしました
「もうこんな時間か。やば、ゴミも出さないと!」
朝からイラストの制作作業をしていた庵がふと時計を見やると、いつもの登校時間に針が差し迫っていた。
作業を止めた庵は、急いで登校の支度を始める。
学生である彼は夕食前や就寝前以外にも、こうして朝から絵を描いていることが多い。
その勤勉さと作業量が庵をプロイラストレーターへと押し上げた要因だ。
そんな庵の一日は少しの眠気と共に慌ただしく始まるのである。
「さむ……」
部屋の外。マンションの廊下へ身を出すと、充満した凍てつくような冷気に全身の肌がぴりぴりして思わず声が出た。
一月初旬――冬休み明け初日から登校するのが嫌になってくる。
だからといって休める訳でもないし、庵は観念してゴミ袋を手に持った。
彼の住んでいるマンションは各階層にごみ捨て場が設置されている。庵の自宅がある階のごみ捨て場は廊下の一番奥。
寒い寒い、と身を震わせながら庵はそこへ向かって歩き出す。
だというのに、背後から透き通るような声が聞こえきて、たった一歩で庵の足は引き止められてしまった。
「朱鷺坂さん、おはようございます」
声の主の方へ振り返ってみると、そこには肩まで伸びた銀色の髪を揺らす少女が居た。
彼女は庵の自宅の隣に住んでいる水瀬明澄という少女だ。
学校での彼女は聖女様と呼ばれていて、お隣さん兼クラスメイトでもある。
聖女様なんてあだ名が付くだけあって、明澄はとても綺麗な顔立ちをしている。冷た気に澄んだ千草色の瞳、綺麗に通った鼻筋に、艶やかで形良い薄桃の唇と、その端正さはまるで物語の世界から飛び出して来たかのようだ。
すらりとした手足は白磁器を思わせる白さがあり、庵とは肌の透明感がまるで違う。彼女は紛れもなく美少女と言うに相応しい存在だろう。
恵まれた容姿に加えて品行方正かつ成績優秀。基本的には誰にでも分け隔てなく優しくて謙虚な性格をしている。
といったように、清楚を極めたような彼女が聖女様と呼ばれるのは何も不思議ではなかった。
当然、学校ではよくモテていて彼女の周りに人集りが出来たりする。
ただ、庵はそこには加わらない。興味がない訳では無いが、お近付きになりたいとは思わないのだ。
その結果、すれ違った時に申し訳程度の会釈をするぐらいの非常に素っ気ない関係となっていた。
だから、彼女がわざわざ声を掛けてくるのは随分と珍しいことだった。
「あの、今日から指定のゴミ袋の筈ですが?」
「あ……」
「あなたもここが厳しいことを知っていますよね? すぐ学校に苦情が来ますし、私にも迷惑なのでちゃんとして下さい」
彼女が声を掛けてきたのは、庵へ苦言を進呈するためだったらしい。
怒っているようでは無いがどこか冷たい物言いだった。
明澄は学校だと聖女様なんて崇められている割に、実は庵にだけは少し冷たかったりする。
彼女に対して興味は薄いけれど、そこは気になるところだ。
恐らく真相を知る機会は無いと思われるが。
「そうだった。けど、指定のやつ持ってないな……申し訳ないけど一枚ほど貰えたりしない?」
「はぁ……仕方ないですね。少しお待ち下さい」
今年からゴミの出し方が変わったことを庵はすっかり忘れていた。このままだとゴミを捨てられないから、ダメ元で明澄に助けを求めてみる。
すると彼女は呆れながら部屋へと戻っていく。冷たくはあってもやはり噂通り根は優しいらしい。
「これきりですよ。今日の帰りにでもコンビニで買って来てください」
「ありがとう。悪いな」
「では」
部屋から戻ってきた明澄は庵にゴミ袋を渡すと、スタスタとその場から去っていく。
本当に無愛想というか素っ気ない。向こうからすると庵のこともそう見えているのかもしれないが。
それにしても一体自分は彼女に何をしたんだろうか。
心当たりのない庵は首を傾げながら、有難くゴミ袋を使わせてもらうのだった。
「おーい、聞いてくれ! すう様が身バレ&彼氏バレしたってよ」
教室へ辿り着くや否やそんな声が聞こえてきて、庵はぎょっとした。
正体を隠してイラストレーターをしている庵にとっては、あまりにも身近な話題過ぎて怖くなったからだ。
身バレという単語に怯えていた庵をよそに、身バレしたらしい当人が中々の有名人ともあって、一部のクラスメイトたちの間では大きな話題となっていた。
彼らから視線を移しちらりと教室の端を見やれば、明澄の姿がある。彼女は話題に見向きもしていなかった。
まるで世俗との関係を断ち切っているかのようだ。住む世界が違うとはこのことだろうか。
「まじじゃん。すう様家凸までされてるし」
「ショックだわー彼氏かよー」
(身バレかぁ。大変だな。てか、寄りにもよってすう様かよ)
庵は席に着きつつ密かに耳を寄せる。
話題に上がっているすう様とは人気のゲーム実況系VTuberで、その彼女のキャラデザを担当した絵師と庵は繋がりがあった。
身バレとは身元がバレることの略称であり、庵のようにSNS等において有名人の場合は特に恐れていることの一つだろう。
ストーカーやアンチに悪用されるのは目に見えている。最優先で回避すべき事案だ。
(まぁ、まだ個人のすう様で良かったか。大手のVだと阿鼻叫喚だろうな。ウチの氷菓もそうか……)
アイドル売りをしている者たちにとって、恋愛沙汰は大スキャンダルだ。
もしそうなったら地獄絵図が展開されるに違いない。恐ろしい話だ。
(ま、俺は身バレしたところで影響はないか。氷菓絡みは怖いけど)
他人の配信に出演している以外は普通のイラストレーターという点で考慮するなら、庵の身バレや恋人バレなんて一瞬話題になるかどうか程度。
ただ氷菓との関係を親娘というより、男女の仲として見ているファンが存在するのも事実だ。
それを加味するのなら、庵に恋人が出来て露見でもすればそれなりに騒ぎになるかもしれない。
そうなると彼女に迷惑をかけることになるだろう。
今一度気をつけようと気は引き締めておく。
同時に、そもそも恋人なんていたことがないので大丈夫だろう、と庵は高を括ってもいた。
すっかり外も暗くなり始めた放課後。
庵は朝あんなに重かった足取りを軽くさせて、自宅マンションの前まで帰って来ていた。
彼の足取りが軽いのは、昨夜告知したミニイラストブックの予約が好調だからだ。ついさっき担当者から連絡があった。
いつもは避ける階段も今なら軽い運動と称して、わざわざ登っていくくらいには浮かれている。
夕食は何にしようか、とかどうでもいいことを考えつつ一人で楽しくしていたのだが、階段を上り切り自宅方向へ顔を向けたところで庵の足と思考が止まった。
数秒視線を泳がせ自宅へ焦点を合わせ直すと、聖女様という別世界の住人がぽつんと庵の部屋の前で佇んでいた。
今朝とは違って、彼女はどこか落ち着きの無い様子でそわそわしているように見えた。
「俺に用でもあるのか?」
目が合ったので、愛想の欠けらも無い声音で話し掛けてみる。
どうせ今朝のように何か注意されたりするだけだろう。
「朱鷺坂さんて、私の『ママ』ですよね?」
どうでもいいことだろうと決めつけていたのだが、唐突に明澄からそう告げられた庵は「は?」としか返せなかった。
帰宅していきなり普段距離のある同級生に『ママですよね?』と言われて困惑するなという方が無理がある。
「少し雑過ぎましたね。それでは改めますけど、朱鷺坂さんの正体ってプロイラストレーターのかんきつ先生ですよね?」
返す言葉が見つからなくて戸惑っていると、それを察した彼女は、はにかみながら言い直した。
そうして庵は、ようやく自分の置かれている状況を理解することが出来た。
身バレしてんじゃん、俺――と。