第144話 師匠登場
「えと、ここって……」
幾つかの雲行きがさっぱりと青空を彩る快晴の日。
明澄と共に赴いたのは庵の師の勤め先が居を構える中規模のビルだった。
ビル一棟が会社のものではなく、中階から上階を占めているのだが、入居している会社名が印字された看板を見た明澄は、驚きを声にも顔にも表していた。
「……Time Seekさん、ですよね?」
「そうだよ。三人から始まった同人ブランドも今や大ヒットタイトルを連発する大手メーカーさ」
「流石に大きな会社過ぎません? 私、聞いてませんよ。本当にこんな気軽に立ち入っていいんですか」
本日訪れる場所は、大戦国時代となったソシャゲ界で燦然と輝く有名メーカーのオフィス。
プレイをした事がなくても、常にCMが流れているし、一度は名前を聞いた事があるだろうと言ってしまえる企業だ。
明澄の同僚にもファンがいて、プレイ配信が行われているし、何人かには案件まで任されていたりもする。
有名と聞いていたものの想像を越えてきたせいか、取り乱す事が稀な明澄が不安がっていて少し面白かった。
「大丈夫、大丈夫。アポイントメント取ってるし、ほら中から迎えが来た」
フロントで待っていたところ話し声が聞こえたのだろう、本日の訪問相手側からやって来る。
ピシッとスーツを着込んだ、大きな二つのお下げの若い女性が手を振っているのが見えた。
その女性は爽やかな笑みで「やー、来たねー。暑いしとりあえず、中行こうか」と、オフィスのフロントに案内してくれて、そのまま一緒にエレベーターに乗り込む。
「さて、庵君。いや大先生と呼ぶべきかな」
「先生はやめて下さい。戸塚さん。あと、お久しぶりです」
「うんうん。久しぶり。いやー大きくなったね。話は聞いてるよ、そっちが彼女さんだね?」
「ええそうです。こちら、俺の彼女の水瀬明澄です」
「水瀬さんね。あたしは、戸塚雛穂です。よろしくね」
「え、あ。はい。水瀬明澄です。本日はお忙しいところ、お世話になります」
明澄は庵と親しく軽口を交わす細目の女性、雛穂から緊張しつつ名刺を受け取り「こちらの方が、庵くんのお師匠さんですか?」と、先程とは百八十度違う意味でやや不安げに尋ねてきた。
「違う違う。この人は営業部の方で、師匠の後輩。ここに来る時はいつも迎えに来てくれてね」
「そうでしたか。庵くんがお友達以外で楽しそうに話してるのが珍しかったので、そうかなと。失礼しました」
ぺこりと頭を下げる明澄は、静かに気付かれないように胸をなでおろしていた。
その意図はあまりにも失礼過ぎるので、絶対に気づかれまいと隠す。
そう嫉妬は大罪である。
「あはは。こんなのが師匠だったら庵君も困るでしょ」
「いやいや。俺はあなたからの方がよっぽど世間を学びましたよ」
「そう? まぁ、先輩は……しょうがないね。と、少しディスったところで、間もなく着きますよと。出て右の突き当たりね」
「おーや。もう着いてたか」
エレベーターから降りるなり、右奥のドアが開いたと思えば、二十代にも三十代にも見える青年が出て来て庵たちを視認するなり、気さくな笑みで片手を上げる。
ソフトツーブロックのアップバングに半袖のシャツと少し縒れたズボン、ピカりと光る腕時計と、まあまあどこにでも居そうな風貌ながら、奏太に似た爽やかな顔付きをしていた。
「あ、先輩。もう終わったんですか」
「おう。ちょうど良いところに。四時から会議する事になったから、お前も出てくれ。雑誌の件な」
先輩と呼ばれる青年は庵や明澄に目を配ったものの、それきりで雛穂と話し始めてしまった。
まるで二人には興味が無いと言わんばかりだ。
「かしこまりっす」
「あと、営業部には悪いけど残業募っといて。詳しくはフォルダに入れてるから。あと、そこの二人は引き継ぐよ。対応助かった」
「それじゃあ、戻ります。じゃ、お二人さんごゆっくり」
簡潔に要件だけ伝え、雛穂を労いつつ仕事場に戻せば「よし。部屋に行こうか。自己紹介はそこでする」と、彼は近くのドアを指さし中に入れてくれる。
対面で庵と明澄はオフィスチェアに座って、彼はそれを見るなりどっかりと沈み込むように腰掛けていた。
「んん"〜! 疲れたァ。……さてと、よく来た。庵、久しぶりだなあ」
「相変わらず忙しそうだな、師匠」
ぐぐぐっ、と背伸びをし懐かしそうに庵を見やりながら、懐古するような声色で口を開く。
この男こそ、庵の師匠である。
「夏イベ前なもんでね。あと、師匠って呼ぶな。いや、まぁ良い。そこの美人を放ったらかしにするのは良くないな。こんにちは。初めまして、青芝吉斗です。庵の彼女と聞いているよ」
「は、はい。み、水瀬明澄と言います。本日は貴重なお時間を割いて頂きありがとうございます。庵くんから少しお噂は伺っております」
庵の師匠呼びを嫌がりつつも、取り直した吉斗は明澄に柔らかい笑みを向けて自己紹介する。
やっぱりどこか緊張した様子の明澄は、表情を少し固くさせながら名を名乗り、丁寧にお辞儀してきちんと礼まで述べた。
「おい、庵。めちゃくちゃ綺麗な人連れて来たな。どこのご令嬢だ?」
「家の事は知らないけど、まぁ、自慢ではある」
「……お前、そんな事言えるようになったのな」
明澄の言葉遣いや物腰柔らかい声の出し方、その他の所作や振る舞いは高校生にしては出来過ぎており、高貴に見える。
だから吉斗は庵の家柄からして、どこぞのお嬢さんと知り合ったと勘違いしたらしい。
「と言うか、師匠。ペンネーム明かしてやってくれ。俺の師に会ってみたいって話だからさ」
「おお、そうだったな。あとだから師匠って言うな。……すまない。水瀬さん。青芝吉斗改め、芝居こたつ。Time Seekのしがない社員です」
「あ、え! うそ!? いえ、なんとなく察してましたけど、あの芝居先生ですか!」
明かされたペンネームは『芝居こたつ』。
カラフルで色彩豊かなイラストが特徴であり、柔らかく仄かに淡い色味を特徴とした色遣いを得意とする庵とは真逆の存在だろう。
また、カラフルな色味でも絵を描く事のある庵だが、商業ではほとんどしないので本当に真逆の師だ。
流石にVTuberとして活動し、今やミリオンを達成した娘がいる庵より有名という訳ではないが、ゲーム好きだったりサブカルを中心にSNSを見ていれば、確実に見聞きする名前である。
また、Time Seekから発売されるゲームタイトルに彼の名が入っているかどうかは要チェックポイントでもあるくらいには、名が売れているイラストレーターだ。
よって、明澄がびっくりするのも無理はない。口元を手で押えるも、その驚きは抑えきれていない。
事前情報と会社名から浮かぶ名はあっただろうが、「やはり、庵くんのお師匠さんだけあって、御高名でした……」と、呟く内容にその驚きが如実に現れていた。
「おー、知ってくれてるみたいで、嬉しいなぁ。よくみんなから芝先って呼ばれてるよ、『シバイ』なのにな。以後、よろしく」
「本当に芝居先生なんですね。とてもびっくりしました」
「どっちかつうと、明澄の方が驚かれるだろうに。無自覚だなあ」
「あ、やっぱどこかのお偉いさんだったりする?」
「いや、なに。なぁ?」
「芝居先生、実は私、VTuberでして」
「まじ?」
「庵くん……かんきつ先生に手掛けていただいた京氷菓の中の人なんです」
予めここに来る前に、明澄の正体を明かしてしまうと言うのは決めていた。
芝居こたつの本名はバレているが顔出しをしていない事もあり、明澄は律儀に自分の身分も明かすように望んだのだ。
信用したのは、他人と関わらず友人にすら距離を作るような庵から尊敬し憧れると聞き及んだのが大きかった。
「は……? はあぁぁぁぁぁッ!?」
そして、庵の言う通り明澄の正体を知った吉斗は、理解するまでに一瞬眉を傾け、それから大声で驚愕の声を上げた。
「え、あのぷろぐれすの!? この間、百万人達成してたよな? 大人気VTuberを彼女にするとか、オタク男子の夢じゃねえか。それよか、お前担当に手出したのか!?」
庵と明澄を交互に視線を左右させながら、吉斗は怒涛の勢いで捲し立てる。
「言い方、言い方。色々あったんだよ」
「折角、庵の彼女が来るからってクールぶってたのによぉ。度肝をエクスカリバーでぶち抜かれた気分だぞ、おい……」
彼女はこの三人の中でも一番に有名な存在だ。
ましてや弟子がキャラデザを担当したVTuberで、しかも恋愛関係としてくっついているなど、展開がベタ過ぎて、とてつもない衝撃を彼にもたらしていた。
アイドルやタレント、モデルと言われた方がまだ驚かなかったかもしれない。
久しぶりに会った弟子に対しての妙な行動の、なりを潜めさせた吉斗は、呆れ果てるように肩を竦めていた。