第143話 夏休みの始まり
「明澄、庵。二人ともちょっと時間あるかしら」
終業式とHRを終えた放課後。
早速夏休みへと飛び出して閑散とし始めた教室は、まばらな生徒たちの浮かれた声と蝉の鳴き声に包まれている。
今年は長期休暇前に聖女様を誘う生徒も減り、一息入れつつ帰り支度をしていると、手を合わせる胡桃がこちらにやってきた。
「どうした。今日は部活ないんだろ。奏太はルンルンで出て行ったが一緒じゃないのか?」
「今日は二人に用事があったし先に帰って貰ったのよ。お昼から好きな配信があるらしいしね。悔しい事に」
「配信?」
「あれ、知らないか? あいつ唯一見てるVが居るんだよ。九重零七って言うんだけど」
「まぁ……!」
奏太と付き合いの始まりは共通の趣味であり、それがゲームと配信だった。
彼は殆どVTuberを見ないが、たまたま見つけた零七の配信を好んでいる。
彼女の話をすると胡桃が嫉妬するので、あまり会話にもしないから明澄は知らなかったのだろう。
身近どころか親友である零七の名前が出て、明澄は驚き過ぎると何で驚いたのかと不審がられるから、反応を抑えつつも「意外です」と目を一瞬見開いていた。
「今はそれは良いとして、今日は頼みがあるの。時間大丈夫かしら?」
「俺たちはいいよ。な?」
「はい、大丈夫ですよ。胡桃さん、そこに座ってください」
「ありがと」
椅子を寄せて来た胡桃は「早速」と言いながら二人の前に座る。
「単刀直入に言うけど、割の良いバイト知らないかしら?」
「駅前で物を受け取るだけで一日五十万とか調べたらすぐ出てくるぞ」
「馬鹿じゃないの? それ、危ないバイトでしょ。あたしに何させる気よ。こんなギリギリに聞いたのはバイト初めてだから不安で迷ってて決めかねてたし、二人に紹介して貰えないかなって思ったんだけど、アテが外れたわね」
「ああ、待ってください。庵くんが失礼しました。ほら、庵くん。紳士で真摯に」
庵がふざけた態度を取ったから退席しようとした胡桃を、明澄がぺちっと庵の太ももを叩きつつ引き留める。
バイトの紹介を終業式当日に願い出るという事は、本当にギリギリまで悩んだのだろう。
明澄に言われたのもあって、「へいへい。で、何でバイトしたいんだ?」と、庵は再度席に着いた胡桃に向き直った。
「来年は受験でしょ、今年いっぱいは遊びたいし、ちょっとお金に余裕持たせたいの」
「普通だな。で、俺たちを訪ねたのは?」
「ぶっちゃけ言うと、二人ともお金に余裕あるのかな〜って。普段、学食行った時とか遊んでる時も全然値段気にしないでしょ。あと、服装とか持ってるもの結構良いのが多いし、明澄に至ってはお高めの化粧品使ってるの知ってるし、いつも早く帰るからバイトとかしてると思ったのよ。良い所のマンションに出入りしてる噂もあったから、お小遣い多めに貰ってるとかもあるとは思ったんだけどね。二人とも親から貰ってたくさん使うタイプには見えないし」
「なるほど。まぁ、確かに金欠になった事はないな」
「ええ。親からは多めに頂いてるものの一切手を付けていませんが、お金に困った記憶はないですね。スーパーへ行く度、頭を悩ませますけれど」
豪遊したり羽振りが良いという程ではないが、二人共必要な時は気にしないし、学食もあまり利用しないので行く時は折角ならと財布の紐を緩める。
物に関しては良いと思ったものや長く使う事を考えて選ぶから必然と値段は上がるが浪費ではない。
例に出された衣服は間違いないが、明澄の化粧品は特に好みに合わせるし良い方を選ぶので、高めも混じっているという程度。
だから、配信にかける分とか好きなソシャゲの課金以外はあまり使っていないつもりだったが、それでも同年代から見るとお金を持っているように見えたらしい。
庵も明澄も危険な事はしないし、そうなるとお金の出処として必然的にバイトが浮かび上がってくるから、それで彼女はこうして頼みに来たのだろう。
「それで何かないかしら。やっぱりバイトしてるのよね?」
「あーいや、なんというか」
「えと……」
胡桃の予想は大体合っていたが、残念ながら庵も明澄もイラストレーターと配信者という個人事業主なのでバイトはしておらず、正体も明かせないから答え辛かった。
言い濁したからか胡桃が「えっ!? まさか危険な事?」とびっくりしつつ訝しんだので「してないしてない」と揃って首を振る。
どうしたものかと首を捻り悩んだ庵は、数秒思案して口を開いた。
「誓って悪い事はしてないし、両方今はバイトはしてない。ただ、俺からはいくつか紹介出来るバイトがあるぞ」
「そうなの?」
「庵くん?」
いくつも仕事を受けて来た分、庵は様々な知り合いが居るし職場を知っている。
胡桃がバイトをしたい理由も健全だし、本人の性格も真面目で信頼があるから、伝手を紹介してもいいと思った次第だ。
紹介するのは良いが言うのが遅過ぎだ、と若干眉をひそめつつも彼女にそう提示する。
「採用の保証はしかねるが、後で確認取ったら良さげな候補を送るよ」
「分かったわ、ありがとう。それでお願いするわね」
「OK。じゃあ、この後働ける時間と働きたい期間だけメッセしてくれ」
「ほんと無理言ってごめんなさい。今度からはもう少し早く相談するわね」
申し訳なさそうにお辞儀した胡桃は謝る。
こんな世の中だし、初めてのバイトは悩むものがあるのは理解出来た。
何よりこれまで訳あって彼女とは距離があったから頼ってくれたのが嬉しくて、もうとやかく言わず庵は「じゃあ、頑張れよ」とだけ言って、スクール鞄を手に持った。
# # #
「それで、庵くん。胡桃さんに紹介するバイトの候補先ってどこなんです?」
マンションに帰ってくるなり、庵はずっとソファでスマホを弄っていたのだが、その間自宅にシャワーを浴びに行った明澄が涼やかな白いワンピースに着替えて戻ってきてそう尋ねる。
「一応三つあるんだけど、一つは爺さんと婆さんの店」
「そう言えば、庵くんのお祖父様とお祖母様は飲食店を営まれているんでしたね」
「うん。まぁ、こっちは遠過ぎるから多分ない。けど、胡桃は引越し前あっちに住んでたし、念の為な。向こうに親戚とかいて通えるならまだ近いし」
「確かにそれなら通えるかもしれませんね。それで、残りのお二つとは?」
「一つは俺に良くしてくれてる編集者がいる出版社と、こっちが本命だが、俺の師匠が働いてる会社」
教室で悩んだ際、ぱっと思い付いたのが今明澄に教えた三つの職場だった。
祖父母の店は身内で一番信頼出来るし、出版社の方は庵にカレンダーやアートブックなどの販売で世話になっている編集者が、最近バイトの募集がどうとか言っていたのを思い出していた。
最後に本命と言った職場はゲーム会社になる。
そこの人間と殆ど知り合いだし、イラストの仕事も貰っている。
彼女には庵との関係を明かしさえしなければそれでいい。
師からの返事も早かったから、胡桃にはまずこちらを勧めるつもりだ。
また、どれも室内を選んだのは夏の暑さを考えた庵の優しさだった。
「庵くんの、お師匠さんの会社ですか。お師匠さんも会社も両方有名なんですよね? 一度どんな方か会ってみたいですね」
「いいぞ。明日、会うか?」
恐らく感想程度だったろうに、庵から不意に告げられた明澄が「えっ」と、驚きを漏らす。
実は、先ほど師から『是非、人手が欲しい』と連絡が帰ってきた時に、『夏休みだし久しぶりに顔を見たいなぁ』と孫に会いたがる祖父母みたいな一言が添えられていたのだ。
「予定がなければだけど。明澄さえ良いなら全然すぐに会えるぞ」
「えぇ……。急過ぎますよ」
「そうだよな。まあオレは明日会いに行くから、その気になったら言ってくれ」
庵が師匠と呼ぶその人は、忙しいから庵も直接会ったのは去年の秋にまで遡る。
それでも去年の入学式以来顔を見ていない両親よりは会話もあるが。
いくつか『文句』を言いたい事もあって、急遽明日会社へ赴く事にしたのだ。
「いえ、行きたいです。すっごく気になるので」
「了解、師匠に言っとく。あ、彼女として紹介しても、良いか?」
「はい、大丈夫です。寧ろ他人として紹介されたら悲しいです」
「おけおけ」
彼女といくつかの確認を取り、アポイントメントのメッセージを師に送っているその隣では、明澄が「急展開です」と焦りつつも、どこか楽しみにしていた。
そして、庵は師匠や胡桃にメッセージを送り終えると、今年はとてつもなく濃い夏休みに突入したのだった。
という訳で、夏休み編が始まりました!
一発目は庵くんの師匠が登場です。
前回のしっとりした話から一転して、夏らしい話題とか、奏太くんが零七(澪璃さん)を見てるとか言う最初期の忘れられた設定が再登場とかしましたが、夏の終わりに夏のお話スタートです。
もう八月が終わりますが、ここからギアを上げつつ更新頻度は頑張って保ちますよ!
庵くんの明澄さんの関係もまだまだ深まっていくので、お楽しみに!