第136話 球技大会と天下布武の聖女様
「やっと球技大会だー」
夏休みまであと十日を切った連日の猛暑が襲うある日の朝のHR前。
体操着姿の颯人がグッと両腕を上げ、体を伸ばしていた。
本日は球技大会初日。
前日まで土日を挟んでの五日間のテスト期間は、大半の生徒を苦しめていた。颯人もその一人だったから、得意の運動だけの一日とあって喜びを全身で感じ取っているらしい。
「しんどい……」
「庵は元気ないなあ」
「クソ暑い上にスタメンとか……」
「だって庵、サッカー上手いし」
「違う。俺は大体なんでも平均値あるだけ」
「だからだよ。というか、それ凄いことだからね?」
「やる気あるやつに任せりゃいいのに」
夏の最盛期を迎えようとしている現在、庵は大忙しの夏の仕事をようやく納品した直後にテストをこなし、加えて夏バテ気味で体力が削られたままで回復していない。
目も合わせる元気がないのか机に伏した彼を奏太が覗き込むと、目元には疲労の跡も付いていた。
最近は学校行事や人との交流も頑張っていて、六月まではやる気もそれなりにあったのだが、疲労MAXで今日を迎えてしまったのだ。
「あら、庵くん。大丈夫ですか?」
「夏バテらしい」
「そうみたいなんですよね。家を出る時より元気ないですし」
更衣室から戻ってきた明澄が、机にダレている庵を見つけて心配を口にする。
愛しの存在と言えど、庵はそちらを振り向くのが精一杯。熱がある訳でも体調不良とも言えないので、開会式まで全力で体力回復に務めているのだ。
奏太と明澄が困ったな、と目を見合わせていた。
「仕方ありません。私がひと肌脱ぎましょう」
「いいぞ。彼氏にかましてやれ」
「おっ、聖女様。何が飛び出すんだ?」
ふんすとひと息放った明澄がそう言って腰に手を当てる。
それを奏太と颯人が囃し立てれば「取っておきを」と、彼女はポニーテールを揺らし庵の耳元に顔を寄せた。
「庵くん。今日と明日乗り切ったらご褒美をあげます、というのはどうでしょう?」
ふふ、と明澄はやる気出るでしょうと言わんばかりの自信満々の笑みで庵に提示する。
甘く艶のある誘うような声色は彼の鼓膜を刺激しただろう。ぞわっとする感覚を身に刻み付ける。
揺れたポニーテールからふわっと香る制汗剤とシャンプーの匂いもまた庵に襲いかかっていた。
そうすると、クラスからは「ずるい」だの「羨ましい」だの、「ご褒美をお裾分けしろ」とか声が上がるのだが、まだ身体が重い庵は「う〜ん」とほぼ無反応でブーイングが上がる始末。
暑さが相当庵を苦しめているらしい。
「……む………………れ」
「お?」
「どした?」
「庵くん?」
「頼む今日もご褒美くれ」
ようやく反応したと思えば、庵は明澄からの提示に更に要求してご褒美の内容を釣り上げようとし始める。
二日目の明日では遅い、という事だろうか。
三人はさて、どうするかと腕を組んで思案するも、庵がまだ何か言いたそうにしたので一旦様子を見ることにした。
「なんなら、頑張らなくても欲しい。いや今すぐ帰りたい。一緒に早退かつ無償の愛という手段はありますか」
「あっ、コイツ! これ元気だろ!」
「めちゃくちゃだなあ」
三人が静かに見守ったと思えば、出来る要求全てを庵はここぞと吐き出した。
声に元気はないくせに今なら許されるだろうと、勢いに任せて言いたい放題だ。
目の前で聞いていた明澄はまさか控えめな彼からそんな発言が飛び出すと思っていなかったのか、瞼をいつもより持ち上げる。
それから、ふぅとため息を漏らして庵の頬をつねった。
「いででっ!」
「全く、ばかなことを。要求の釣り上げは交渉術の初歩ですが、上げすぎると決裂します。そんなのをまかり通せるのは大国アメリカくらいです。それに私の愛はいつも無償でしょう?」
「その通りでございます」
「では頑張れますか?」
「はい。精一杯頑張らせてもらいます。得点王……は無理なので奏太を得点王にします」
「よろしい。でも最近頑張ってましたし、今日も帰ったら何かしてあげますので」
庵の扱いはお手の物だった。
呆れるような口調で、明澄はまるで子供に言い聞かせる母親のような姿をクラス中に見せつける。
強い。今日はただその一言を贈りたくなるような、明澄による庵への見事な制御力が初めて披露された日になるだろう。
時々、庵がばかなことを言い出す度にこうして明澄が小言を言うのだが、毎度従う羽目になるのである。
庵からすると「ちょっとふざけただけだったのに」と、恥を晒す羽目になってぐっと唇を結んだ。
「すげえ。完璧なコントロール力だ。武豊みてぇな手綱捌きだぜ」
「いや、サッカーでたとえなよ。どう見てもロナウジーニョのボールコントロールに引けを取らないよ」
完全に他人事、いや他人事なので当然だが、颯人と奏太は面白がっていた。
二人が感心する明澄のその背中は貫禄があって、『ああ、このカップルは聖女様が上なんだ』とクラスメイト一同も理解した瞬間でもある。
教室の所々から「同情する」、「そりゃ聖女様強いよな」とか、「家庭の天下人には逆らうな」などと言われていた。
ただ、二人きりの時に限れば割と庵がリードしたりするのだが、それは彼らが知らない方が庵の身の安全の為だろう。
いや案外明澄の方が、と言いたいところ不本意な評価を受け入れて自重した。
その代わり、明澄の提供するご褒美が思ったより豪華で思わぬイベントをもたらすのだが、それは少し後の話だ。