52Hzの蛹
バイタルモニター群。心拍。血圧。体温。呼気成分。脳波。運動量。
環境モニター群。温度。周囲流体組成。流量。圧力。
不明なモニター、ふたつ。
「オーディオスペクトラム」
私の同僚——メルヴァ——は言った。絶え間なく上下する波。
「音楽」と彼女は続けた。
「なぜ?」
「情緒が安定する」
そのとき、維持蛹内の個体——通称Ι——が目を開けた。
片方のモニターのスペクトラムの振幅が大きくなった。
Ιはブラウンの瞳で私を追う。管理された低重力下に栗色の髪が遊ぶ。
「喜んでいるみたい。あなたが来て」
「なぜ?」
Ιを見るのはこれが初めてだ。
「刺激になるから」
維持蛹はおおよそ直径一メートルの球体であり、内部は生命維持に適する流体で満たされている。Ιはそこに、浮くでもなく沈むでもなくうずくまっている。身動きする余地はほぼない。それでも、Ιが知性と感情をもっていることは明白だった。私が維持蛹の周囲を歩くと、Ιはそれに沿ってゆっくりと回転する。私が腕や視線を動かした先に注目する。Ιと視線を合わせながら一巡し、メルヴァが座る管理コンソールへと戻った。
「おめでとう」
けげんな表情が返る。私は言葉を継いだ。
「ついに成功したね」
「……いいえ」
そのとき、出処も輪郭も定かでない、本体のない共鳴のような音を感じた。
「ああ、また」
彼女が維持蛹に視線を移す。私が来て以来、初めてのことだった。つられて目をやる。Ιが手を引く、その最後だけが見えた。空気の振幅が細かく、微かになり、そして止まった。
「これは人間じゃない。……残念ながら」
彼女の言葉が聞こえたはずもないが、Ιは自身の膝に顔を隠すように背を丸めた。
「神経系が問題」
休憩室に場所を移す。メルヴァは高エネルギーのスナックを手にしていた。
「神経活動は、ニューロン間およびニューロン・他種細胞間での伝達によって行われる。その伝達の場がシナプス」
それは流行のフレーズのように気安い口調だった。
「Ιもその構造は変わらない。問題は、伝達されるもの」
私は彼女の言葉に耳をかたむける。
「本来ならば化学物質や電気現象であるそれが、Ιの場合は音波」
「音波?」
「そう」
彼女はスナックをかじり取った。塊が、咀嚼によって、細かく砕ける。今この場で発せられているこれも音波だ、と私は思った。
音波による神経活動の意味を考え、口に出す。
「速くて、不安定だ」
「そう」
「維持蛹からは出せない」
「不可能ではなくとも、非常に高リスク」
私はうなずいた。彼女はスナックの続きに手を出そうともせず、もの言いたげな顔をしている。
私は待つ。メルヴァは促されなければ発話できないほど子供ではない。
「……相談」
「私は専門外だけれど」
「いい」
スナックをもう一口。咀嚼も嚥下もせず、彼女は続けた。
「Ιを処分するべき?」
「……しない理由が?」
「……理由になるかどうか、判断してほしい」
「専門外だよ」
私は繰り返した。
「いい」
彼女も繰り返した。
Ιは先ほど見た姿勢を変えずに維持蛹内に漂っていた。
私はコンソールを操作するメルヴァを後ろから見ていた。
記録用モニタにスペクトラムが現れ、目まぐるしく上下する。
「……このあたり」
スペクトラムが止まる。次の瞬間、雰囲気の密度が変わった。
音楽が、忍び寄っていた。基底に規則的な低い拍と、寄せては返す満ち引き。まるみを帯びた摩擦音。時折散る極小の火花。ひとつひとつは単純なそれらが重なり、うねり、私の注意を根こそぎ攫う。
「あなたが来た時間帯のアウトプット。インプットを重ねる」
全身の細胞が打ち震えるような錯覚にさえ陥った。インプットは人間文明において著名だった古典音楽。アウトプットはそこに絡み合い、全く新しい色を加えていた。中枢から末梢へと、音はまるで血球のように体内に行き渡る。
メルヴァがコンソールからの出力を止めるまで、私は時間の経過を忘れていた。
「Ιは外部刺激の全てを音波に変換し、伝達し、反応にまで結びつける。その音は体外にまで漏れ出している」
静かな室内に彼女の声が通る。構成されたばかりの調和が崩れるのではないかと、恐る恐る口を開いた。
「美しかった……」
「それが問題。Ι自身はそれを知覚していない。私が再生する音楽を聴くだけの生命」
オーディオスペクトラムは維持蛹に満ちる音を観測し続けている。
「Ιを処分すべき?」
知覚可能、あるいは不可能な振動を詰め込んだこの世界に、尋ねる声が揺らいで、消えた。