空を泳ぐ死体
脳下垂体劣化による重力ホルモン欠損症。医者に告げられた妻の病名だ。こんな聞いたことのない病気に妻は歩くことも、笑うことも奪われたのだ。
重力ホルモンとは重力を筋組織に認識させるホルモン。重力ホルモンがないから、重力を筋組織が認識しない。重力を認識しないから、筋組織が衰えていく。そして、萎縮が始まる。
健常者であれば、脳下垂体から重力ホルモンは分泌されている。だが、妻の脳下垂体に起こった後天的な劣化が重力ホルモンの分泌を遮断する。脳下垂体の後天的な劣化の原因は分からない。いや、一生分かることはないだろう。脳下垂体劣化による重力ホルモン欠損症を治療する術は現代医学に存在しないのだ。
重力を認識できない妻の筋組織の萎縮が進行していく。私と一緒に歩くこともできなくなった。私の手すら握る力を失った。
「いずれ、呼吸すらままならなくなるだろう。」
医者の言葉通り、今の妻は人工呼吸器をつけたまま、ベッドで眠り続けている。全ては15年前に始まったことだ。
脳下垂体劣化による重力ホルモン欠損症を発症した妻が眠り続けて、5年が過ぎ、会社、病院、自宅を行き来する時間は常に絶望に染まっていた。人生が絶望で埋め尽くされたとしたら、気を狂わさずにいられるだろうか。救いのない未来に押し潰された時、ありもしない夢物語に手を伸ばしても、おかしくはない。私はそう思う。
今にも零れてしまうほどの絶望を抱えたまま、主治医の勧めで他の医者の話を聞いた。その内の1人の医者の話だ。
「脳下垂体劣化による重力ホルモン欠損症は重力を認識することができなくなる病気です。」
主治医から紹介された医者が唇を丁寧に動かす。
「では、重力を認識できるようになればいい。残念ながら、現代医学では治療方法が確立されていない。」
それは何度も聞いたよ。絶望が質量を増して、私にのしかかる。
「抗重力丸という薬を知っていますか。」
医者が私に問いかける。抗重力丸、初めて聞く言葉に私は口ごもる。医者は次の言葉を紡いだ。そして、抗重力丸の物語を語り始めた。
ある製薬メーカーが新薬開発に成功した。名前は抗重力丸。抗重力丸は重力に抗うことが目的。重力に垂れる肉体を持つ女性が治験者に選ばれる。彼女はコンプレックスの塊だった。醜い自分の姿に怯え、人の視線を避けるように生きていた。誰もが羨む美しい姿をしていれば、どんなに人生が楽しいか。彼女は夢を見た。そして、抗重力丸の治験者に自ら手を上げたのだ。
彼女に抗重力丸が投与されると、あれだけ重力に垂れていた肉が締まり、息吹を上げて、空に向かう。彼女は自分の姿に狂喜乱舞した。スポーツジムに通い、汗だくになる。ダイエット食品を試しみて、空腹に堪える。それでも、何ら変化のなかった彼女の肉体は脱皮するかのように姿が変貌していく。抗重力丸の効果は絶大だった。
街を歩けば、誰もが振り向く美しさを得て、誰の視線も怖くない。彼女の美しさに突き刺さる視線に喜びを感じる。
抗重力丸を投与されるまでは、顔を上げて、街を歩くこともできなかった。彼女はきらびやかな服を纏い、颯爽と歩く。足音もキレがあり、鋭い。すれ違う人の視線が心地良い。溢れ出る自信が彼女を余計に美しくさせる。
抗重力丸の実験は大成功だった。抗重力丸はダイエットだけではない。いずれは不老不死、若返りにも利用できる奇跡の薬になるはずだった。製薬メーカーは更にデータを集めるため、他の治験者を探していた時のことだ。抗重力丸の治験者である彼女が空に消えたのだ。
彼女は部屋のベランダに手をかけて、体を預けた。その途端の出来事だ。彼女が風に浮いた。ベランダから重力に引きずられ、落ちたのではない。彼女は空に浮かんでいた。抗重力丸が彼女を重力から解放したのだ。
彼女の美しい体は空へと浮かんでいく。手を伸ばし、ベランダの手摺りを掴もうとするが、届かない。舞い上がる風に高層ビルを越えていく。高層ビルを越えた世界には彼女と風と鳥しかいない。手を伸ばしても、届かない街。落ちるように空に吸い込まれていく。
冷気が体を浸蝕する。血管を通って、体を廻る。血液が、肉が、骨が、細胞が凍りつく。寒い。寒いよ。彼女の呻きすらも凍る冷気が体を満たしていた。もがけばもがくほど、凍りついた服と皮膚を剥がす痛みが彼女を襲う。だが、そんな痛みも体が凍りつくにつれ感じなくなる。
遥か下にあるのは灰色の高層ビルの群れとその合間に蠢く蟻のような人の列。あの列の最後尾にいた過去の醜い自分。抗重力丸のおかげで頂点へと駆け上がった、美しい自分。絶対的に後者の自分がいい。彼女は顔を上げた。もう下は向かない。彼女の強い意志がアクセルとなり、加速して、高度一万メートルの世界に辿り着いた。
もう痛みも、苦しみも感じることはない。彼女は美しいまま、生きたまま、満ち足りた笑顔のまま、凍りつき、息絶えたのだ。
今も彼女は見つかっていない。抗重力丸の効果が切れて、この世界の何処かに落ちてしまったのかもしれない。その事故があってから、抗重力丸の開発計画は頓挫する。いずれ、辿りついたであろう不老不死も、若返りも永遠の夢となった。
「近い未来、医学がさらに進歩すれば、同様の薬が開発され、脳下垂体劣化による重力ホルモン欠損症の治療方法も確立するだろう。」
現実にはすでに製薬メーカーは倒産していて、抗重力丸なる薬はもう存在しない。だが、まだ見ぬ未来に治療方法が見つかるかもしれないこと、未来に一筋の希望があってもおかしくないことを医者は伝えたかったと思う。
確かに医者の言うとおり、医学が進歩すれば、抗重力丸と同じ効果を持つ薬が開発されるかもしれない。その可能性は十分にある。抗重力丸の物語で未来に一筋の希望を見出すことができるという医者が伝えたいことも十二分に理解できた。
だが、私は医者の知らないことを知っていた。
私は航空会社で航空管制官をしている。そこで、機長やCA、乗客から聞いた噂がある。高度1万メートルの世界で凍りついた女性の死体が笑って、泳いでいるという。日本上空だけでなく、世界中の空で目撃されている現象だ。そんなものは都市伝説だと思っていた。だが、医者の話を聞いて、絶望しかなかった未来のピースが組み合わさる。そして、私は確信した。抗重力丸の治験者である彼女は抗重力丸の効果が切れて、この世界の何処かに落ちたわけではない。今もまだ空にいる。空を泳ぐ死体、それが彼女。抗重力丸に囚われたまま、彼女は高度1万メートルのマイナス50度の空を泳ぎ続けているのだ。
医者の思惑とは違うが、私は未来に一筋の希望を見出す。空を泳ぐ死体を手に入れて、彼女から抗重力丸の成分を抽出すること。それが私の一筋の希望となり、生きる目的となった。
バードストライクとは飛行機に鳥が衝突する事故のことだ。飛行機の飛行領域と鳥の生息領域とが重なり合う領域でバードストライクは起こる。鳥がコクピットを破損させることもある。鳥がエンジン部分に入り込み、離陸できなくなることもある。バードストライクが飛行機を墜落させることだってある。だが、バードストライクは鳥の生息領域でなければ起こることはないのだ。
空を泳ぐ死体が目撃されたのは高度1万メートルを飛行する飛行機からだ。高度1万メートルの世界はマイナス50度の極寒の世界。それ故に生物が存在するはずがない。もし、高度1万メートルの世界でバードストライクが起こるのならば、それは鳥ではなく、空を泳ぐ死体が飛行機と衝突したということだ。
脳下垂体劣化による重力ホルモン欠損症の妻とともに歩き、笑うため、高度1万メートルの世界でバードストライクを起こし、抗重力丸を手に入れる。私の意識が一筋の希望に向かって加速していく。
私は空を泳ぐ死体の目撃された場所を地図に記し、点を積み重ねた。10年の歳月の中、点が線を形成し、立体的なうねりとなる。私は空を泳ぐ死体の通る道を見つけ出した。
「もうすぐ、もうすぐだよ。」
ベッドで眠り続ける妻の手を握る。
「もうすぐ、高度1万メートルの世界でバードストライクを起こす。抗重力丸のサンプルを手に入れる。そして、君はもう一度、目を覚ますんだ。」
もう絶望は感じない。私と妻の未来は一筋の希望が彩っていた。