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アーフェン  作者: 菜々
Episode.02
25/38

10.逃げて

よろしくお願いします!


※これまでの話を改行・誤字修正しました

 最初感じたのは胸の中心を突き抜けていく鉄の冷たさだった。やがてそれは灼熱(しゃくねつ)に変わる。

 胸を起点に全身を瞬く間に支配した熱に、耐えきれずメロアは膝をついた。

「……っぁ……」

喉の奥から熱いものがこみ上げ、メロアは反射的に吐き出した。白い床が彼女の血で赤く染まっていく。

(自分の血なんてものを見ることになるなんて、ね)

 油断はしていなかった。物音一つ、心音一つでもすれば気づいたはずだった。

 なのに――気づけなかった。視界が白くなっていく。


(ティオ……ごめんなさい)


 メロアは痛みに遠のく意識の中、少年の無事だけを願った。


  *


 ただただ無我夢中に走っていたティオは、いくつ目かわからない階段を上ったところで足を止めた。

 心臓の鼓動と共に視界が赤く明滅する。あの場所からどのくらい離れられただろうか。未だ整わない息を努めてゆっくり吐き出し、ティオは(あご)から滴り落ちる汗をぬぐい去る。

 周囲は薄暗く、廊下に等間隔で並んでいるランプが灯っているだけだ。今のところ人の気配はない。

 その事実を確かめ、ティオは思わず壁に背を預けて座り込んだ。安堵がこみ上げてくる。

 一分、二分と時が過ぎても誰かが来る気配はやはりない。しんとした空間。錆び付いていた機械が動き出すように、ティオの思考がようやく動き出す。


「逃げろ……か」


 思い出したのは彼女らしくない焦った声だ。正直、あの時何が起こったのかまだよくわかっていない。

 誰かの攻撃を受け、轟音と共に壁が弾け飛び……気づけばメロアに守られていたのだ。彼女がかばってくれたおかげで、この身には傷一つない。

 けれど、身代わりになった彼女は怪我をしていた。あの出血の量……かなり深かったはずだ。今更になって自分ひとりが逃げたことに対する感情が胸を埋め始める。

 それは黒々としていて――罪悪感に似た感情だった。

 彼女は無事だろうか? もしも無事ではなかったとしたら?

 そんな恐ろしい想像がよぎる。目をそらしたくなるほどの現実感を伴って。鮮烈な朱色のイメージが頭にこびりついて離れない。

 助けに戻ろう。一瞬そんな考えが浮かんで……けれど。


「戻れる、のか?」


 あの場所に? 

 場所がわからない。どうやって行けばいいのかわからない。誰かに見つかったら危険だ。

 言い訳はたくさんできる。けれど結局のところ、ティオは自身の恐怖に背を向けることはできなかった。


「怖い」


 どうしようもなく怖い。

 今自分は王城に侵入しているのだ。

 それがどんな危険を伴うのか、ティオはあまりにも無知だった。いや、知らないわけではなかった。メロアの存在があまりにも頼もし過ぎたのかもしれない。

 けれど今目を閉じれば浮かぶのは、折れてしまいそうな儚い少女の姿だ。あの場にただひとり残してしまった。

「とにかく、今は逃げる。そして……あいつを助ける方法を考える」

口に出してみる。

 思ったよりも大きく響いたことに心臓が跳ねたが、どうせ誰もいないのだ。気にする方が馬鹿らしいと思い直す。

 だんだんと鼓動が収まってきた。口に出してみれば、案外簡単な事なんじゃないかとすら思えてくる。

 これは危険な兆候かもしれないが、今はむしろ大歓迎だ。ティオは立ち上がった。まずはここがどこなのか調べよう。自分の居場所もわからないんじゃ、話にならない。

 階段の踊り場を抜け、再び駆け出した彼の目に、薄暗い廊下の最奥の光が飛び込んでくる。

 不自然に明るい光だった。それはどうやら奥の部屋の扉から漏れ出ているようだ。

「……」

逡巡(しゅんじゅん)は一瞬。ティオはなるべく足音を殺しながら扉へと向かって歩き出す。

 誰かがいるなら……まずは丁重にお伺いをたててみるとしよう。



 城の全部屋に共通する美しい装飾を施された扉。薄く開いているその扉をそっと開き、ティオはまず中をのぞき見た。

 書斎? だろうか。

 まず目に付いたのは、部屋中を埋め尽くす本の山だ。おそらく、部屋の壁に沿って置かれている巨大な本棚から溢れ出したものなのだろう。

 ただそのせいか、部屋は予想よりも大分窮屈に感じた。扉のすぐ向こうに見えるのは、大きな机と椅子。この部屋の主が使っているものか?

 その椅子には誰も座っていない。

 部屋は巨大な本棚で、二つに分断されていた。そのせいで扉から奥の方は見えないが、物音一つしない。

 今この部屋は無人のようだった。じゃあ、なぜこんなに明かりが点いているんだろうか。

 不思議に思い、何気なく目をやった天井。ティオはそこに描かれたものに、束の間呼吸を忘れる程に意識を奪われた。

 美しいシャンデリアが下げられた天井には、神話の一場面だろうか……美しいドラゴンが一人の人間と共に描かれていた。

 ところどころ絵の漆喰(しっくい)が剥がれ落ちているのを見るに、古いものなのだろう。それでも、その美しさは少しも損なわれていない。


「綺麗だ……」


 そんな言葉が無意識のうちに唇からこぼれ落ちた。今自分が陥っている状況すら忘れ、ティオは扉を開け放したままそれに見入ってしまう。

 熱にうかされたような顔つきの彼は、ふらふらと部屋の中に彷徨いでて行く。伸ばした手は、その絵を掴み取るためか。

 空を悠々と飛ぶ、虹色に輝く鱗を持った竜。その翼は天井中に広がり、美しい血脈を透かし見せていた。

(……?)

 竜の首筋、そこに一人の人間が掴まるようにして描かれていた。人間の表情は見えない。ティオはさっき聞いた吟遊詩人の話を思い出した。

 かつては、人間とドラゴンが共に空を駆けるということがあったのだろうか?


「知りたくありませんか?」


 落ち着いたテノールの声。背後から聞こえたそれに、一瞬で現実に立ち返る。

 息を呑んで振り返ったティオの目の前で、細身の青年は優雅に一礼してみせる。顔を上げた青年のガラスのような茶色の瞳が、ティオを鋭く捉えていた。

ありがとうございました!

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