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第一章 きこえる(8)

***


 亜衣は、ふらふらとした足取りでとある商社を後にした。

 今日の面接も、だめだった。あれは間違いなく、「君を採用する気はない」、だ。そう顔に書いてあった。

 はあ、と小さくため息をつき、そして鞄の中から手帳を取り出す。もう大学四年の夏だというのに、内定がなかなか取れないだなんて。

 このまま就職浪人にでもなってしまったら、と考えると、もう亜衣は泣き出したくてたまらなくなった。しかし、泣いている場合じゃない。これから三時間後に、また別の面接があるのだ。じわりと目に浮かんだ涙を拭うと、気持ちを切り替えるべく、とりあえず行きつけの喫茶店に寄り道することにした。

 中に入ると、スーツ姿の亜衣を見て手を振る女性がいる。彼女と同じ黒のスーツという出で立ちで、長い髪を後ろで一つに束ねていた。活発そうな美人さは、今も健在だ。

「ああ、まり」

 森永真理とは、結局大学まで同じ場所になってしまった。学部こそ異なるが、通う時間帯も取っている授業も被る部分が多く、今も昔と同様に過ごしている。相変わらず真理は亜衣のことを大事にしすぎるきらいがあるし、亜衣の引っ込み思案もさほど変わらない。世の中、どうしても変わらない人間の本質というものがあるのだ――亜衣はそう思い込むことにしていた。

 真理の座るボックス席に腰かけると、さらりと襟足の黒髪が肩からこぼれ落ちる。

「お疲れ。どうだった?」

「全然」

 亜衣は首を振り、それからやって来たウェイターにカプチーノとシフォンケーキを注文した。こういうときは、甘いものに限る。

 ひとり納得していると、真理が何か言いたげにじっとこちらを見つめていた。

「……亜衣はどの喫茶店に行っても、そればかり頼むよね。そんなに好きなの? カプチーノとシフォンケーキ。泡ばっかじゃないの」

「うーん」

 そういう訳でもないんだよね、と亜衣は首を振った。

「高校の時にね、一度だけ行った喫茶店があるの。詳しいことはほとんど覚えていないんだけど、そこで食べたシフォンケーキとカプチーノの味が忘れられなくてさ。似たような味をついつい探し求めてしまう訳」

「それだけは覚えているのね」

 亜衣はゆっくりと頷いた。そして、ふっと破顔した。まるで昔を懐かしむかのような、寂しさと慈しみに溢れた表情。いつの間に、彼女はこんな顔をするようになったのだろう。真理は首を傾げるばかりだ。

「不思議だよね。どんな店員だった、とか、どんなお店だった、とか。そういうことは全く覚えていないの。だけど、あの味は忘れられない。絶対に」

 そして、ふ、と息を吐き出した。そんな彼女を、真理はにやついた表情で見つめていた。

「亜衣が恋してるみたい。私、なんだか嬉しいな」

「恋? そんな大逸れたものじゃないよ」

 そう、恋なんかじゃない。あれはきっと、『憧れ』なのだ。

 今もたまに夢に見る。もっと前は事故の夢ばかり見ていたけれど、ある日を境に全く見なくなった。その代わりが、『あのひと』の夢だ。高校生の姿の亜衣が、『あのひと』に頬を撫でられる夢。顔は全く分からないのだが、あの人は優しく微笑んで。

 ――硝子の靴じゃないけれど、『あれ』を持って迎えに行く。

(おかしいな)

 だって、今までに一度も『あのひと』に会ったことはないし、直接話したこともない。結局、あれ以降も亜衣には『あのひと』の所在を知らされなかったのだ。だが、彼女は「また会えるのではないか」と漠然とした思いを胸に抱いていた。そう、いつか本当に、迎えに来てくれるのではないかと密かに期待していたのである。

(うーん、我ながらロマンチストだ)

 亜衣はウェイトレスが運んできたシフォンケーキとカプチーノに舌鼓を打ちつつ、そんなことを考えていた。



 後に真理と別れ、亜衣は次の面接会場に向かった。次は、ブライダル専門の企業である。昨年できたばかりだというビルの八階にそのオフィスは掲げられている。

 スーツは乱れていないか、髪はぐちゃぐちゃでないかを丁寧に確認したのち、亜衣はビルに入ってゆく。次こそは、失敗してはならない。ここで人生決めてやるんだから! と、亜衣にしては珍しく勝気な思考だった。

 エレベーターに乗り、八階へ。その間、エレベーターには誰も乗ってこなかった。そっと降りると、品の良いカーペットが引かれたフロアに辿り着いた。本社はこの奥だ。どきどきと心臓がやたら跳ねる。口から出てくるんじゃないかと思うくらいに激しい動きだ。

(頼むから、私の心臓、大人しくしてくれないかなぁ……)

 ドアに手をかけ、三回深呼吸。大丈夫、行ける行ける。

 意を決し、亜衣は例のオフィスへと入っていった。挨拶した後に、担当の方に連絡を取ってもらうよう受付でお願いすると、すぐに奥から一人の男性が出てきた。

 黒い髪は短めで、精悍さが際立つ表情。しかし、どこか優しげな雰囲気を併せ持つ、一言で言うならば少し不思議な人だ。そして、なぜか彼はその手に薄汚れた女物のローファーを握っている。おや、と亜衣は思った。

(なんで、ローファー? ここってブライダルの会社だよね?)

 その疑念は、彼が発した一言で全て解決する。


「約束通り、迎えに来ました。神楽亜衣さん」


 まさか、と亜衣は目を剥いたまま固まってしまった。

(嘘でしょう?)

その声に、聞きおぼえがあった。いつも夢に現れる『あのひと』の声だ。間違いない。口元に手を当てたまま呆けていると、彼は優しく微笑みながら亜衣に近づいてくる。

(どうして、なんで、こんなところで?)

「エントリーシートを見ていたら、君の名前を見つけたんだ。やっと、逢えた……」

 このやり取りの真意が分からない受付担当は、ただただぽかんと口を開け広げるだけだった。勿論亜衣も、一体この人が何を言い出したのかうまく理解できないでいる。その表情で、彼ははっと我に返った。

「申し遅れました。わたくし、人事担当の三枝廻さえぐさ・めぐると申します」

 さえぐさ、という名には覚えがあった。あの事故があったとき、入院している亜衣に新品のローファーを渡していった女性の名だ。それを亜衣が尋ねると、彼は「ああ」と首を縦に動かした。

「それは私の姉です。私が、あなたの靴を握ったまま病院に運ばれてしまって……その、亜衣さんが困っているだろうからと、私に隠れてこっそり持っていったそうで」

 本当はもっと早くに行くべきだったのだが、廻も亜衣同様、所在は分からなかったのだそうだ。ただ唯一覚えのある『神楽亜衣』という名前だけを頼りに、彼女を探し続けていた。それだけに、六年。もう会えないかとも思ってしまったほどだ。

「じゃあ、あなたが……」

 亜衣の声が震える。また泣きそうになっているのだ。しかし、ここで泣いてはいけない。ぐっと堪えると、首を微かに横に動かした。よく考えろ、と己を心の中で叱咤する。

(今日の目的は、『これ』じゃないでしょう? 私はここに何をしに来たの?)

 そんな亜衣を愛おしげな瞳で見つめつつ、廻はさっぱりとした口調で言い放った。

「とはいえ、今はしがない面接官ですが。積もる話はまたあとで」

 さぁこちらに、と開かれた応接室に向けて、亜衣は最初の一歩を踏み出す。



 そう、泣いてばかりのあの頃とは違う。

 私は今から、自分の手で、願いを叶えに行くの。

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