第一章 きこえる(3)
こんなに美形な店主だとは聞いていなかった。
亜衣は、どきどきと胸を高鳴らせながらカウンター席を希望した。一人で奥のテーブル席を使うのは忍びないと思ったからである。彼はエスコートするように彼女の斜め前へ立ち、すっと椅子を引いてくれた。
「どうぞ」
「あ、ありがとう……ございます」
おずおずと彼女は座り、再び辺りを見回した。
バー・カウンターの奥の棚には、たくさんの引き出しが並んでいた。おそらく、あそこに茶葉やコーヒー豆が並んでいるのだろう。今まで本格的なカフェに入ったことがなかった亜衣は、戸惑いながらも紺色のスクールバッグを足元に置く。
そうしていると、彼はレモン水を満たしたグラスをゆっくりと出してくれた。ことん、と重みのある音を吸収する暗い色をしたコースターは、縁が金押しになっていてとても綺麗だ。
(き、緊張しちゃうなぁ。こんなお店、一人じゃあ入ったことないし)
かつて真理と言ったことならあるけれど、あの時も無駄に緊張しすぎて店員にオーダーすることもままならなかった。結局、真理にまとめて注文してもらったことを思い出し、ついつい背中に影を落としてしまう。
(こんな私じゃあ、ダメなのに)
さて、と彼は口を開く。
「お嬢さんの願い事はなんでしょうか。恋の悩みとか?」
にっこり、と王子様スマイルを浮かべた彼に、亜衣は思わず顔を真っ赤にして首を横に振った。例え恋の悩みだったとしても、決して彼に相談することはできないだろう。こんなかっこいい人に、たかが高校生の恋バナなんか聞かせてたまるか!
「ち、違いますっ! 私は……!」
「正宗。お前からかいすぎだぞ」
彼女の言葉は、別の声に遮られた。
先程彼が出てきた扉を押し開け、白いエプロンを着た男性が出てくる。こちらも、よく漫画で見る菓子職人の衣装そっくりそのままの出で立ちだ。黒く短い髪に、褐色の瞳。精悍な印象の見た目であるが、どうもエプロンの着方はだらしない。席へ案内してくれた彼とはまるで正反対だな、と亜衣は思う。
そんな彼はバターの匂いを纏いながら、白い皿に乗せたスコーンを片手に茶髪の彼に近づいていく。
「靜」
「おお、今日のお客さんは随分可愛い子じゃねぇか。こりゃあ腕の振るいようがあるってもんだ」
あまり余計なことを言うんじゃない、と茶髪の彼が靜と呼ばれた男を窘めた。そして、気を取り直すべく軽く咳払いをし、再びキラキラ王子様スマイルを浮かべる。
「ええと……お嬢さん。私が『カフェ・サンドリヨン』店主の長門正宗です。こちらは、うちの専属パティシエの新井靜」
「あ、神楽……亜衣、です」
亜衣さんね、と正宗が微笑み、奥からメニューを取り出した。そしてそれをそっと、彼女の前に置く。
「どうぞご覧になってください」
二つ折りのメニュー表は、表紙が合皮のようなつるつるとしたもので覆われており、金字でその周りを囲んである。
(一体どんなメニューがあるんだろう……高いのかな)
胸を高鳴らせつつ、亜衣はそれをゆっくりと開いた。
しかし。
「えっ……?」
何も書いていない。白紙だった。
目を瞠りながら正宗を仰ぐと、彼は靜が持ってきたスコーンを摘んでいた。
(からかっているのかな)
しかしながら、実際にはそうではなかった。単に、正宗がその反応すら既に予測済みだっただけだったのである。
「当店には、決まったメニューがないんですよ」
「メニューが、ない?」
「そう、だからそれはあくまで飾りなんです。メニュー表を見て、何も見えない方は来店する資格があるということです」
ごくたまにいるんですよねぇ、と彼は言う。「ろくな願い事でないくせに、運よくうちの店を見つけちゃう人が。おれたちだって、そんな願い事を叶えてあげられるほど暇じゃない。だから、最終チェックも兼ねて必ずこのメニュー表を見せるんです。なにかが書いてあるように見えれば、その方は資格なしです。それとなくお断りして、適当に帰ってもらいます」
なにやらとんでもないことが聞こえた気がするが、その辺りについて詳しく聞いてしまってはいけない気がする。亜衣は再び、手元のメニュー表に目を落とした。やはり、どうみても白紙だ。
(これって、つまり)
話してもいい、ということだろうか。自分の願い事を。
不安そうに顔をあげると、ふたりの男性は優しげな表情でこちらを見つめている。
「亜衣さん。おれたちに聞かせてくれませんか? あなたの悩みを」
ね、と笑った正宗の表情を見ていたら、なんだかじわりと目が潤んできた。
(ようやく、話せる人が現れた)
漠然と、そう思ったのだった。彼らの温かい微笑みに、頑なだった心が解けてゆくのが分かる。しかしまだ迷いはある。彼女が抱える悩みは、他の人には決して受け入れられないものだと彼女自身が理解しているからだ。
「聞いて……くれるのですか」
おそるおそる尋ねると、正宗は優しい声色で、しかし自信満々にはっきりと言い放った。
「ここは、そのための店ですから」
そのさっぱりとした返答に、亜衣は不思議と心を動かされた。そう、何度も繰り返し言う通り、それは決して受け入れられないと分かってはいる。しかし、そんな時決まって脳裏をよぎる真理や『あのひと』の姿を考えたら、できるだけ早くなんとかしたかった。
これは自分のためでもあるが、それ以上に、『あのひと』のためだ。
しばらく口を閉ざしてしまった亜衣だったが、ようやく意を決し、おもむろに顔を上げた。
「わたし、どうしても会いたい人がいるんです」




