第五章 とける(2)
正宗は本棚の中から、今度は別の一冊の本を取り出した。茶色の革張りの表紙で、タイトルは書かれていない。百科事典ほどの厚さがあるその本の上部を覗きこみ、僅かにはみ出た黄色のしおりを外す。
祐一郎が消滅してから、何度も開いた頁。
そこには、「捉われた魔法使いが外に出る方法」と太字で書かれていた。見出しの横には赤い髑髏の絵柄が書かれており、一目見ただけでそれが普通のものではないということが理解できる。
(叔父さんが、最後に「自分のために」使った魔法)
サンドリヨンを建てた際、管理団体からひとつだけ約束するように強制されたことがある。それは、「魔法を人のために使うこと」。決して自分のために使ってはならない。私利私欲のために使うほど、世界にちりばめられた魔法は多くない。それに、かつての魔法使いたちは自分のために魔法を使ったからこそ破滅に追いやられたという経緯もある。だからこそ、管理団体はその点においてのみ厳しい制約をかけたのである。
具体的には、こうだ。
自分で自分に魔法をかけた場合、例の時間が訪れると同時に身体が灰のように崩れ落ちてしまう。
もちろん正宗も例外でない。靜はどうやら気付いているようだったが、四十年ほど前から正宗は一歩も外に出ていない。出られないのだ。正宗は管理団体により課せられた「魔法の半永久的保護」の任務により、老いを知らない身体となっている。しかしながら、彼の身体にかけられた「永遠」という名前の魔法は、奇しくも店の中でしか有効ではない。ひとたび外に出れば、「魔法を自分のために使った」と見做され、その場で肉体が灰に変わってしまう。
こんな残酷な運命でも、祐一郎は己の信念を貫いた。
たったひとりの女性を愛してしまった。彼女と同じように歳をとり、彼女と同じように死にたいと願った結果が「これ」なのだ。
「ひとを愛する気持ち、か……」
ぽつりと呟いた時、手にしていた本から何かが滑り落ちた。すとん、と音を立てて床に着地するそれを見やり、正宗は思わず首を傾げてしまった。
「なにこれ」
そもそも、この本は正宗が店を継いで以降、幾度となく開いた本なのである。なにかが挟まっていれば当然気が付くはずなのに、正宗は今の今まで「これ」の正体に気が付かなかった。
怪訝そうな表情を浮かべながらそれを拾い上げる。どうやら、三つ折りにされた便箋のようである。随分古い紙で、端の方が若干変色してしまっている。触った感触からして、ただの藁半紙だと思うが。
そっと開いて中を確認してみると、その中にはさらに三葉の写真が挟まっている。その写真を見て、正宗はぴたりと指を止める。
(この写真)
くすんだモノクロ写真に写るのは、幼い頃の自分だ。
一枚目は、おそらく祐一郎のもとに引き取られた当初のもの。たしか八つくらいの時だと思う。みすぼらしい恰好に、ふてくされた顔。散々親戚にたらい回しにされ、最終的に辿り着いた祐一郎の元で、「どうせこのひとも邪魔者扱いするのだろう」と思っていたあたりの。だからこんなにふてくされた表情なのだな、と思う。
しかし、この写真のあとに、祐一郎はなけなしの材料で甘い菓子を作ってくれたのだ。黒糖で作った、今で言うところのサブレというやつを。あれがとてもおいしくて、それをきっかけに祐一郎に懐いたのだ。我ながら現金な奴である。
「まだ残ってたんだ、これ」
二枚目は、正宗が見習いになりたての頃のものだ。年齢にしておよそ十代前半、か。仕事のことになると、あれだけ優しかった祐一郎が途端に鬼のような形相になるから、すぐに挫折しそうになった。しかし、別に憎くて怒っている訳ではないと理解できたからこそ、なんとかここまでやってきた。それでも製菓に関しては才能がなかったようで、最終的には飲み物専門ということで落ち着いたこともまたいい思い出だ。
(ケーキはしぼむし、スコーンすら真っ黒にするしね)
正宗は自分の失態を思い出し、ついつい笑ってしまった。
「だから靜のを見たとき、本当に驚いたんだよなぁ」
一緒に携えてきたホールケーキはどうやら彼の作ったものではなかったようだが、その後に作ってくれたベイクド・チーズケーキは本当に素晴らしかった。本人は「失敗した」と呟いていたけれど、あれのどこが失敗なのだ。本当の失敗というやつは、自分が生み出す炭と化した出来そこないのことを言うのである。
しかしながら、靜は職人だ。正宗には分からない「何か」が気に入らなくて、さらなる高みを目指してゆく。記憶に残る靜はいつもそうだった。比較的さっぱりとした性格の割に、製菓のこととなると途端に我儘になる。貪欲、とでも言うべきか。あれが彼の最大の強みだということに、彼は気付いてくれただろうか。
(ただでさえ、靜は自分のことをこっぴどく貶すところがあるからなぁ)
考えながら、最後の一葉に目を落とし――正宗はぴたりと手を止めた。
「これ、」
厳密に言うと、それは写真ではなかった。
金箔のような淡い光を纏った薄い文字が、白いカードの上を走ってゆく。その言葉を見たとたん、正宗は凍りついてしまったかのように動けなくなった。そんなはずがない、とようやく唇を動かした頃、遠くの方で振り子時計の鐘が鳴る。
文字の端から、徐々に金の文字は薄れてゆく。まるで粉雪が手の中で溶けてしまうように。ふわりと柔らかく、儚げに。
「どうして……!」
消えて行く、「諦めるな」という一言。
それはまるで、かつて祐一郎が正宗にかけてくれた言葉のようだった。何度も挫けそうになりながらも、それでもここまでやってこれたのは、その度にかけてくれた彼の一言のおかげだ。
諦めるな、と。
――確かに、何でも手を出せばいいってものじゃない。だが、そこまで人間ってのは強くない。魔法使いまで諦めてしまっては、叶うものも叶わないだろう。だから、魔法を使う時は、そのひとの願いが必ず叶うと、誰よりも信じてやらなくちゃ。
そう言って、記憶の中の祐一郎は正宗を励ました。
最後の一文字が消えて行く。かつて文字があった場所に、今度はぽたりと涙がこぼれ落ちた。
(おれが間違っていた)
三葉の写真を握り締め、嗚咽を漏らさぬよう正宗は必死になって堪える。
(あのひとが最後に使った魔法は、決して「自分のため」ではなく――)
諦めるな。この、たった一言だった。
どこまでも、あの魔法使いは最高の魔法使いだ。きっと、今の自分でも決して追いつけるようなひとではない。
「ははっ」
正宗の口から、嗚咽に震える笑いがこぼれ落ちた。
「ばかだなぁ、人の心配をするくらいなら、自分の心配をしなよ……!」
最高の魔法使いによる最高の魔法は、これで幕を閉じた。このあとの展開はどうなる。
それこそ、自分の手で動かさなくてはならない。今まで自分が見守ってきたシンデレラたちのように。自分の運命は、自分で切り開くものだ。
王子様が探しに来なければ、自分で探しに行けばいい。「灰かぶり」でもなんでもいい。
もう「魔法使い」でいることをやめよう。自分の生涯、ただ一度だけの主役になる。
正宗は再び、先程の本に手をかけた。そして開いたページは、何度となく見つめた例の項目。
『とらわれた魔法使いが外に出る方法』
頭に過るのは、悲しそうに呟き、己に触れた靜の声だ。
これで、さよならだ。
反芻する彼の声。あの時、靜はどんな思いでこの言葉を口にしたのだろうか。考えても、きっと正解に辿り着くことなどできやしない。それならば、自分で確かめにいくしかない。
今でもあの言葉を思い出すたびに、心が凍りついたように震え出す。一緒に持ってきていた彼の手袋を再び握ると、正宗の中にたったひとつだけ、己の声が聞こえる。
「ひどいなぁ、本当」
絞り出すような声。「忘れたくても、忘れられないじゃないか……!」
正宗の今までの四十年を考えたら、彼と過ごした一カ月なんか微々たるものだ。それなのに、どうしてだろう。
その一カ月が、大切だったと思い知らされる。かけがえのないものだったと。
ただの「お客様」としてではなく、対等な関係でここに在った。ひとり流れゆく時代を見つめていた正宗にとって、それがどんなに嬉しいことだったろう。誰にも理解されることのない孤独を、あのクリスマスの夜に、新井靜という人物はものの見事に打ち砕いてくれた。
脇役に徹していた自分を、主役の座まで引き上げてくれた。
だからこそ、自分はこの役を演じきる。それは彼に出来る唯一の恩返しだ。
「――出よう」
正宗がたった一言、呟いた。その目に、迷いはない。
例え自分が消えてしまったとしても、それで構わない。魔法使いの願いを叶えるのは、やはり魔法使いだと信じた。信じるしかなかった。
誰にも頼らない。頼れない。
最後の魔法くらい、自分のために使おう。
それで、いい。




