第四章 うつる(3)
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しばらく待っていると、奥から利一の声と、もうひとり、知らない男性の声がしてきた。その声はどんどん近付いてくる。
「お待たせ、真理ちゃん」
利一がひょっこりと顔をのぞかせてきた。そして彼の後から、背がやや低い男性が入ってきたのだった。
「あ」
髪は黒く短いので、第一印象は悪くない。むしろさわやかに見える。小柄ではあるが体つきはしっかりとしていて、今その身に纏っているグレーのパーカー越しでもそれがよく分かるくらいにすらりとしていた。青みがかったジーンズも、極端にだらだらとしていないのでそれが好印象に拍車をかけている。
……と、ここまでしっかり観察し、結論として「いい男」に辿り着いた真理だが、別に彼女は本来の目的を忘れた訳ではない。
(嘘でしょう?)
正直なところ、信じられない、が正しい。
なぜならこの男性は、真理の前にフルカラーで現れたのである。
彼は真理を見て、優しそうな表情でにこりと笑いかけた。それがどこか、利一のそれと雰囲気が似ていた。
「ええと。祖父から聞きました。その本というのは……?」
ぽかんと呆けたまま真理が固まっていると、はっとした様子でその青年は付け加えた。
「あっ、いつも祖父がお世話になっております。私、二代目の敦貴と申します。佐藤敦貴」
(に、二代目ですって?)
脳が正常に機能していない。ただでさえ、彼が突然フルカラーで現れてきて混乱しているのだ。申し訳ないが、話の意味がまるっきり理解できていなかった。
そんな真理の様子に、利一が付け加えた。
「私の孫だよ。今この店は、これに任せてある」
つまり、ええと。今の店主、ということだろうか?
「失礼ですが、利一さんのお名前は……」
「佐藤利一」
なにを今更、とでも言いたげに、利一は穏やかに笑って見せた。
そうなんですか、と頷いてみせると、ようやく真理の頭の中がすっとしてきて、突然冷静になり始めた。なんだ、別に驚くことじゃないな、とようやく思ったのだった。
ただ、どうして彼がフルカラーで現れたのかは分からないままだが。
真理は彼に先程の本を見せると、はっとした様子で敦貴は最後のページをめくり始めた。
「これ……こんなところにあったのか」
そして、彼は安堵して見せたのだった。その時の表情といったらない。大人びた表情が一気に崩れ落ち、今にも泣きそうになっていたのである。真理はじっと、敦貴のその表情を見つめていた。なんとなく、その表情が「あ、いいな」と思ったからである。
「いや、お恥ずかしいところを。この落書き、見たんでしょう?」
ええ、と真理は頷いた。
「俺、学生時代に好きな人がいて。同じラテン語を勉強していた女の子だったんですがね」
彼曰く。
ある時、その女子生徒がものすごく元気がなかったことがあった。彼女のことを直接励ましてやりたかった、しかし直接励ますのは結構勇気がいる。それで考えたのが、メッセージをたまたま持っていた文庫本に書いて渡そうというものだった。
「ちなみに、どうなりました?」
尋ねると、彼は苦笑しながら本の表紙を撫ぜた。
「渡す前に解決しちゃいました。その子の悩みが、好きな人に告白するか否かというものだったんです。で、結局彼女はそいつと付き合うことになって。俺は失恋です。いや、渡さなくてよかったぁ。しかし、お姉さんはこれをどうして? ここで買ったのは分かるけど」
真理は一瞬口ごもってしまった。まさか、この落書きを書いた人に会ってみたいと思ったからなんて、言えない。少なくとも、その落書きの由来を聞いてしまった今ならば。
(こんなにも近くに、『会いたい』と思った人がいるのに)
それを言えないなんて、どうして世の中は残酷なのだろう。
「……いえ。大したことじゃないので」
これで真理の用件はすべて終わってしまった。さっと立ち上がり、利一と敦貴に一礼した。
「こんなに遅い時間に、どうもありがとうございました」
「あ、ちょっとちょっと。お姉さん」
走り去る気でいた真理を、敦貴が引きとめた。
「この辺は道が暗くて危ないですから、俺が送って行きますよ。じいちゃん、そういう訳だからちょっと出かけてくる」
利一は「そういうことなら」と首を縦に振った。真理は一度悪いからと断ったが、彼がなかなか引き下がらないのと、利一が言った「いいから」の一言に、根負けしてしまった。
そんな訳で、今真理と敦貴は夜道を二人で歩いている。相変わらず、真理の視界はモノクロームのままだ。ただ、夜は黙っていても暗いのでいつもとさして変わらない気もするが。
「それにしても、またあの本に出会うなんて思わなかったな」
真理の横で、敦貴がぽつりといった。あまりに小さな声だったので、うっかり聞き落としてしまいそうなほどだ。
「失恋したと分かったときに、うちの店にこっそり置いておいたんだ。そうすれば、いずれ誰かが買ってくれて、俺の前からは消えてなくなる。恥ずかしい思い出を処分するには最適だと思ったんだけど」
「こうして、戻ってきちゃったんですね」
そう、と敦貴は頷いた。
「不思議ですね。世の中、溢れんばかりに本はあるのに。巡り巡ってこんなところで出会うなんて」
真理はその声を、複雑な思いで聞いていた。彼がいかにしてこの落書きを書いたのかは分かった。そしてその気持ちは、真理が想像していたものとは大分かけ離れていたことも。それでも、自分はこの一言に何度も救われたのだ。
『Aequam memento rebus in arduis servare mentem.(人生行路が険しいときでもあなたの心を冷静に保つことを忘れるな)』――
これでいいのだと、彼女は思った。そしてこうも思う。私は、この落書きを書いた人に恋をしたんじゃない。この落書きに恋をしたのかもしれない、と。全てはばかな妄想だった。
ならば、この気持ちは今、断ち切ってしまうほうがいい。絶対いい。
「敦貴さん」
そう思ったら、もう唇からは声が洩れていた。
「私……この言葉が、とても好きす」
敦貴は目を瞠ったまま、真理の次の言葉を待っている。
「『人生行路が険しいときでもあなたの心を冷静に保つことを忘れるな』。この言葉に、何度も救われてきました。就職が決まらなくて焦っていたときも、自分が一体何をやりたいのか分からなくて行き詰っていた時も。この言葉を目にするたびに、安心して頑張れた気がするんです」
だから、と真理はようやく顔を上げた。モノクロの世界の中、唯一色づく彼の姿。初めは眩しくてよく見ていられなかったが、今は。
(この人は、なんて美しい色をしているんだろう)
彼にとっては些細なことだったのかもしれない。それでも、真理はこの落書きに励まされてきた。そして、そんな言葉を紡ぐことができる人に、ほんの少しの廻り合わせで出会うことが出来た。
これは財産だ。自分にとって、かけがえのない。
だから、どうしても伝えておきたかった。そして、この恋心に別れを告げるのだ。
「――ありがとう。あなたがこれを書いたから、あなたがその女性を好きになったから、今私はここにいるんです」
そう言ったとき、己の瞳から何か熱いものがぼろりとこぼれ落ちた。それが涙と気がつくのに、そう時間はかからなかった。どうして泣いているのかが理解できず、止まらない涙に戸惑いながら真理は瞳を閉じた。もう一粒、涙がこぼれ落ちた。
本当に、嫌になる。私は人を困らせてばっかりだ。ほら、きっと彼も困っている。
そう思うと、より涙が堰を切ったかのように溢れ出す。
「……本当に、世の中不思議なことばかりだなぁ」
敦貴の声が、真理の頭上から降ってきた。そして同時に、ぽすりと彼女の頭に触れる何かがあった。彼の掌だ。驚いてはっと目を見開くと、敦貴は彼女の目の前で、やさしく微笑んでいるところだった。
「お姉さん」
「真理、です」
「じゃあ、真理さん。俺はね、本当に驚いている。俺が書いた落書きに、あなたは別の価値を見出してくれた。すごく嬉しい。今日、お互いに初めて会ったのにさ、もうずっと前から繋がりがあったなんて、不思議だ。不思議すぎるし、身に余る光栄だと思ってる」
ぐす、と鼻をすすると、真理は彼の言葉に耳を傾けた。彼は不思議不思議と連呼しているが、彼女もまた、敦貴のことが不思議に思えてならないのだ。どうしてこんなに、初対面なのに『初めて』という感じがしないのだろうか。
そうか、それが初めから感じていた違和感だったのだ。気が合うなんて表現では足りない、なにかぴったりとしたものを真理は彼の言葉に感じていた。
とりあえず、涙は拭いてしまおう。真理は鞄の中からハンカチを取り出そうとして、
「あっ」
ひらりと、なにか別のものがこぼれ落ちた。小さな花――リナリアの花が、真理を足元から見上げている。
――この花の花言葉は、『私の心を知ってください』。
脳裏を掠めていったのは、あの不思議な喫茶店のマスターの声だ。あの人はなんと言っただろう。確か、「その敦貴さんという方は、きっとあなたを見つけてくれる」と。
(結局、見つけたのは私自身だったじゃない)
ふ、と真理は力なく笑いながら、こぼれ落ちた花を拾い上げる。
(それでも、どうしてだろう。これで「終わり」にしたくない)
今まで私は、確かにこの「落書き」に恋をしていた。さっきまでの告白は、「落書き」に対してのものだ。きちんと決別したつもりでもいる。それでもまだ胸に残るこの気持ちはなんだろう。
かつての彼のように、胸の内で密やかにしまいこんでおいていいものだろうか。
そのとき、真理ははっとして、再び手の内にあるリナリアに目を向けた。
(違う、この花が言いたいのは、そんなことじゃない)
言葉にしなければ通じないものもある。さっきだって、自分は「落書き」に対する気持ちをきちんと言葉にできたじゃないか。
本当に自分の心を知ってほしいと願うなら、自分で行動しなければ伝わらない。この花の本当の意味は、そういうことなのかもしれない。
(言ってもいいのかな)
初めて会ったからとか、そういうしがらみを抜きにして。
真理はゆっくりと息を吐き出し、思い切って声を出してみた。
「あの!」
その声は、ものの見事に敦貴とかぶってしまった。互いにぎょっと目を剥き、そして笑い合う。
「お揃いですね」
「こんなにもタイミングが合うだなんて」
これほどまでに心地良い空気は、生まれて初めてだと真理は思った。
(魔法は、本物だった)
ほんの短い時間だけ、自分を輝かせてくれる魔法。いずれは記憶から消えてなくなってしまう魔法使いに思いを馳せながら、真理は敦貴に問いかけた。
「それじゃあ、同時に言いませんか? もしかしたら、同じことを考えているかも」
「そうですね。じゃあ、」
敦貴も同意する。そして互いがタイミングを計るように、目線を合わせながら。
(それなら、魔法が解ける前に)
伝えよう。シンデレラを探す王子様のように。この際、自分が王子様になってしまえ。
私は、誰かに見つけてもらうまで辛抱できるような我慢強さはないの。自分から動き出さなくちゃ。
そうでしょう? 魔法使い(まさむね)さん。
「敦貴さん、」
そしてこの一言を合図に、二人は同時に口を開いた。
「突然ですが……あなたのことを、好きになってもいいですか?」
王子様は、シンデレラを必ず迎えに行かなくてはならないのだから。




