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第一章 きこえる(2)

***


 実は亜衣も、その喫茶店の噂は聞いたことがあった。というか、彼女が通う高校で知らない人はいないと思う。

 なんでも、その店は本当に真剣な願いを持つ人の前にだけ現れる喫茶店らしい。その喫茶店に行けば、必ず願いが叶う。富を望めばその通りに、絶世の美貌を望めばその通りに。志望校合格、とか、そういった不謹慎な願い事でも、真剣であれば叶えてくれる。確か、そんな内容の噂話だったと思う。

 しかし、実際にその喫茶店に行ったことがある人間がいるかと問われれば、さすが噂だけありそういう内容の噂だけはとんと耳にしない。だから現実主義者の真理は端から「信じない」と言い張っているし、亜衣もその通りだと思っていた。

「ただ、気晴らしになるのなら」

 校門で真理と別れるとき、彼女はそう言って笑った。

「亜衣が元気ないと、私も元気なくなっちゃうよ」

 ――そう、分かってはいるのだ。

 亜衣は橙に染まる空の下、家路についた。黒のローファーが、歩くたびにかぽかぽと音を立てる。サイズが合っていないのだ。そもそもこの靴は自分で試着して買った訳ではなく、『お見舞い』として貰ったものである。さすがに不便なので、来月新しいものを買おうかと考えてはいるが。

 正直、靴の大きさなど、今の彼女からしたら心底どうでもいいもののひとつでしかない。

 ぼうっと歩いていると、突如軽トラックの赤いテール・ランプが目に飛び込んできた。刹那、彼女の脳裏にとある記憶が蘇る。

 あ、と乾いた声が洩れた。

 歪んだ赤の残像と、全身を強かに打った痛み。それから、自分ではない誰かの温もりと、それから。

 思わず立ちすくんだ彼女は、トラックが走り去ってからもしばらくそのまま呆然と突っ立っていた。頭の中に猛烈な速さで流れた記憶が、彼女の身体の震えをさらに強めてゆく。己の拍動が、こんなにも速い。

 言葉にできない感情がぶわりと湧き上がり、視界が滲んでいく。目が熱い。

 泣きそうだということに、亜衣はようやく気がついた。気がついてしまえば、あとは心配いらない。あとはゆっくりと、呼吸を整えればいいのだ。

 深呼吸を繰り返すと、加速した拍動は速度を徐々に落としてゆく。

「……帰ろう」

 しばらくそのままだったが、ようやく歩けるくらいに気持ちが落ち着いてきた。亜衣は再び、ゆっくりと歩き出す。

(あのね、まり)

 親友にすら言えない悩みがある、それは事実だ。しかし、それを誰に相談したらいいのか、分からなかった。これを口にしてしまえば、真理はまたきっと自分のために心を痛めてしまう。昔から、真理は亜衣のこととなると過保護になるのだ。彼女には、これ以上心配などかけたくない。

(もしも。もしもの話だけれど)

 亜衣の頭には、ふたりの人物が過っていた。ひとりは、真理だ。そしてもうひとりは、彼女の思考の大半を占める、とある男性だ。彼は亜衣の思考の中で、こちらをじっと睨みつけている。

 あの喫茶店が本当に存在するのなら、わたしの話を聞いてくれるのだろうか? 願いを叶えてくれるのだろうか? ――どうしても勇気の出ない私を、叱ってくれるのだろうか?

 亜衣は足を止めた。

「なんていう名前だったかな……」

 その喫茶店の名は、そう、確かあの童話の名前だった。魔法使いが、ひとりの少女の願いを叶えてくれる。薄汚い姿から美しい姿に変えてくれる。あの童話。


 ――サンドリヨン。


 亜衣は思わず目を剥いてしまった。

 突如彼女の目の前に現れたのは、一軒の小さな煉瓦造りの家だった。ふわりと周囲にたちこめる心地良い甘い香り。さすがの亜衣も、突然の出来事に混乱した様子で立ちすくむことしかできない。彼女は、ただいつも歩いている道をいつも通りに歩いていただけなのだ。こんな店、亜衣は見たことがないし聞いたこともない。

 まるでおとぎ話に出てくるような外観の建物だ。扉には色とりどりのステンドグラスがはめ込まれており、家の中からこぼれる温かな光に照らされ、より一層輝きを増す。扉の前に設置されているのは、美しい木目の洒落た看板だ。ガラスの靴のシルエットがあしらわれたその看板には、「カフェ・サンドリヨン」の文字が。

 亜衣は己の身に起こった出来事が全く理解できず、思わず頬をつねってしまった。……地味に痛い。ということは、まさか。

「これが、『カフェ・サンドリヨン』なの……?」

 噂の、不思議な喫茶店。

 亜衣は吸い込まれるように、その店の扉に近づいた。この扉を開けずにはいられない。まるで引力が備わっているのではないかと思うほどだ。そしておそるおそる猫足のような丸い飾りのついた真鍮の取手に触れる。アンティーク、だろうか。古びてはいるけれど、とても可愛らしい。ゆっくりと扉を押し開けると、ちりぃん、とドアベルの涼やかな音色が彼女の耳をくすぐった。

 室内から飛び込んできたのは、バターの蕩けそうな香りと、コーヒー独特のほろ苦い香り。思わず顔がほころんでしまうほど、いい香りだ。明るい店内は、その外観と同様、アンティーク風に雰囲気がまとめられている。テーブルも、椅子も。いきなりおとぎ話の中に入り込んでしまったような気持ちになってしまう。

「――おや、珍しい。お客様ですね」

 扉を開けたままきょろきょろとあたりを見回していると、奥の扉からひょっこりとひとりの男性が顔を覗かせた。

 二十代前半くらいだろうか。少し跳ねた明るい茶色の髪に、はしばみ色の瞳。背は亜衣よりも頭二つ分ほど高い。白いシャツは肘辺りで綺麗にまくられている。

「いらっしゃいませ。お嬢さん、おひとりさまですか?」

「あ、あの」

 彼はそのワイングラスを丁寧に置き、カウンター横の扉から出てきた。腰に巻くタイプの黒いエプロンに、同色のスラックスを穿いている。まるで、漫画でよく見るマスター、といった出で立ちだ。

 そう、まるで物語からそっくりそのまま飛び出してきたかのような――

(どうしよう、いきなりかっこいい人が出てきちゃったよ)

 ぽおっとした表情で亜衣が彼を見上げていると、困り果てた表情で彼は首を傾ける。

「ええと……その制服、近くの高校のものだよね。なんだっけ、青洲せいしゅう女子高、かな」

「あのっ、私、」

 何か言わなくては、と思ったら、思いっきり噛んだ。その様子に、くすくすと笑いながら彼は「落ち着け」とジェスチャーで示す。

「ああ、大丈夫。お嬢さん、おれたちに叶えてほしいことがあって来たんでしょう? 大事なお客様だ。お好きな席へどうぞ、おれたちでよかったら聞くよ」

 そして、にっこりと王子様のような優しい笑みを浮かべたのだった。

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