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第二章 かえる(4)

「はい。……海とは、私が拾った子猫のことです。私は現在一人暮らしをしているのですが、今借りている部屋では動物を飼うことが禁止されています。そして、私の収入ではどうしても引っ越しをすることができません。だから、この子を幸せにしてくれる方を探していたんです」

 透子は俯き、己の膝のあたりをじっと見つめている。今にも泣きそうな顔をしながら目を伏せている彼女の睫毛は、今も涙を含んで微かに艶めいていた。

 のろのろと、彼女は口を開く。

「その時は、運よく引き取り手も見つかったんです。でも、この子はどうしても私から離れたがらなくて。それで、新しい里親の方と相談して、『私のところの方がいいのだろう』ということになりました。でも、いつまでもペット禁止の部屋で海を飼うことはできない。いずればれてしまいます」

 だから、今よりも生活水準が落ちるのを覚悟でペット入居可の部屋を探してしたのだそうだ。

 仕事帰りに何件も不動産屋を廻り、休日もほとんどの時間をそのために費やした。休日らしい休日を過ごさないままに、半年が過ぎた。

「見つかってしまったのですね?」

 正宗の問いに、彼女はこくんと頷く。

「大家さんに。期間内に里親を見つけるか、部屋を出ていくかしてくれと言われました。当然ですよね、規則は規則ですから。それでも海を手放す訳にはいかなかったんです。だから私は、その日も朝早くから部屋を探しに出かけたんです――」

 海が言っていた、「朝目覚めたら、とおこさんがいなかった」のくだりはこれだろう。しかし、たしか彼曰く、このあと彼女は帰ってこなかったんじゃなかったか?

「……その日の午後、私は倒れました」

 目が覚めた時には病院のベッドに横たわっており、身体のあちこちに包帯が巻かれていた。医者の診断によると、過労だそうだ。そもそも仕事自体労働基準を上回るほどきつい条件だったと言うのに、ほぼ休みらしい休みも取らずに過ごしていたのだ。最低一週間は絶対安静だと言われ、そのまま入院することとなったのである。

 いよいよ困ったことになった。家で海が待っているのだ。自分が帰らなければお腹をすかせて死んでしまうのではないか。猫だから勝手に外に出ることも考えられるが、海はあまり外に出たがらない猫だった。それに、大家さんから宣告された期間。入院なんかしていたら、その期間は過ぎてしまうのだ!

 彼女の横では、海が震えていた。こんなに近くにいるのに、「自分はここにいる」と今すぐにでも言いたいのに、それをすることはできない。きっと今の姿で「自分が海だ」と言っても信じてくれないだろう。

 それでも。

 海は、まだ自分は嫌われていないのだと悟った。それだけで、彼の心は救われていた。

(とおこさん)

 心の中で、海は思う。

(あなたが探している猫は、ここにいる。ここに、いるんです――)

「……やっと家に帰れたと思ったら、海はいなくて。大家さん、本当は動物好きなんだそうです。こんな小さな猫を捨てるのはさすがに可哀そうだと思ったそうで、私が退院するまでは自ら預かるつもりで、私が不在の間に部屋を訪れたのだと言っていました」

 そこまで言うと、彼女は再び嗚咽し始めた。

「でも、そのときに海は逃げてしまったんです。それ以降、どうしても見つけることができなくて」

 私のせいだ、と必死に叫びながら、彼女は目を擦る。

「私のせいで海が、海が死んでしまったらどうしよう」

 擦ると腫れますよ、と正宗が自分の白いハンカチを渡した。しかし彼女はそれを受け取らず、海が渡したポケットティッシュで鼻をかむ。

 ここまで事情がはっきりすれば、魔法もかけやすいというものだ。

 正宗はふっと笑いかけると、靜の名を呼んだ。

「そろそろじゃないかな? 八分」

 そうだな、と靜が席を立った。そして奥の厨房へと姿を消してゆく。正宗も沸騰した湯に茶葉をティースプーン山盛り二杯入れると、火を止め蒸らし始める。

 それにしても、どうしてこう、偶然というものは絶妙なタイミングで訪れるのだろうか。むしろ、これは必然なのではないか。

 同じ日に同じ人を探す人物がこの店に集まる、だなんて、滅多にない幸運だろう。

「――透子さん。おれは心底驚いています。こんな偶然があるのか、って」

 え? と透子が顔を上げる。正宗はそれ以降何も言わず、淡々とチャイの準備を続けている。二人分、今度は失敗しないようにたっぷりのミルクを注ぎ入れる。

 ちゃんと彼女が、海の存在に気づいてくれるよう。そう願いを込めながら。

 こうしてできた二杯のチャイは、二人の目の前に静かに差し出される。ふわりと漂う甘い湯気には、ほのかにスパイスの香りが混ざっている。

 いい香り、と彼女が呟いた。

「まずは温かいもので、ちょっとだけ気持ちを楽にしてあげましょう?」

 そして正宗が微笑みかける。「落ち着いたら、なにかいい考えが浮かぶかも」

 と同時に、厨房から靜が皿を片手に現れた。その皿の中にあるのは、魚の形をしたクッキー。ココア色や抹茶色、桃色のものまであり、見ているだけで思わず楽しくなってしまうほどだ。カラフルなクッキーは、まだほんのりと熱を持っている。

「焼きたてだから気をつけて。特にそっちの猫舌」

 ぎくりと海が肩を震わせた。それを見て、彼女はふふっと軽やかに笑う。

「私も猫舌なんですよ。お揃いですね」

 顔を真っ赤にしている海をニヤニヤと見つめながら、靜は先程飲み損ねた温いコーヒーにようやく口をつけた。あれは完全に恋している顔だぜ、と。言葉にこそしなかったが。

 ふたりして静かにチャイに口をつけ、二人同時に「熱い」と顔を離した。気をつけてと言われていても、やることは大体同じである。そのリアクションに、二人は互いに顔を見合わせ、「お揃いだ」と笑った。

「あなたも、お願い事をしに?」

 彼女の問いに、海は「ええ、まあ」と答えた。

「探している女性ひとがいるんです。僕を大切にしてくれた人……ある日突然僕の前からいなくなってしまいました。だからここに」

 そう、と彼女は囁くような柔らかい口調で言った。

「ごめんなさい、無神経なことを……」

「いいえ、お気になさらず」

 海は眉を下げながら、「僕はいいんです。僕の探している女性は、僕のことを嫌いになった訳じゃなかった。それが分かったから、もういいんです」

 その言葉に、正宗は目を瞠る。

 海はそんな正宗の様子には気付いておらず、そっとクッキーに手を伸ばしながら悲しげに微笑んだ。さくっ、と軽い音。焼きたてのクッキーは、甘く優しい味だった。まるで、先程正宗が淹れてくれたホットミルクのようだ。

(本当に、不思議な店)

 海は思う。

 前に踏み込むほんのちょっとの勇気を、飲み物やお菓子を通して分けてくれる。ひとりになってから、海はずっと人間になりたいと思っていた。人間になれば、もっととおこさんが好きになってくれるんじゃないかと。自分のために泣くことをやめてくれるんじゃないかと。そう思っていた。

 だが、実際はそうではなかった。彼女はきっと、海が人間であろうとなかろうと同じように優しくしてくれるはずだ。なんとなく、海はそう感じていた。

 これ以上、彼女に執着してはだめだ。手放して、楽にしてあげなくては。

 海は、ゆっくりと口を開く。

「僕がいると……きっとあの女性はまた辛い目に遭うかもしれない。だから僕は身を引こうと思うんです」

 彼女には、と海が震える口調で言った。

「彼女には、ずっと笑顔でいてもらいたい。彼女が幸せなら、それでいいんです」

 今も鮮明に思い出せる。彼女はどんなに疲れて帰ってきても、自分には笑顔で接してくれた。笑って、優しい声色で話しかけてくれた。海は、そんな彼女が大好きだった。

 彼女の笑顔を思い出すほど、今度は自分が情けなくなってくる。所詮自分は猫だ。彼女の幸せに堂々と踏み込んでいける自信がない。ただ、自分のために泣いてくれたことだけを胸に生きていけるのなら、それでいいのかもしれない。

(――僕はここにいる。ずっと、とおこさんの幸せを願っている)

 それでいいのだと、海は思ったのだ。

 彼の言葉に、透子は何も言えず、ただ俯くしかできなかった。

「さて、お二人さん。いつもなら初めに説明しておくことなのですが――」

 正宗が口を開いた。おなじみの、時間制限の説明である。それを聞いた二人は、共にゆっくりと首を縦に振った。

「せっかく出会ったのに、もったいないけれど」

 彼女はそう言って微笑む。

「僕もです」

 二人がチャイとクッキー食したのち、共に席を立った。その足取りに、迷いはなかった。

「それでは、お世話になりました」

 透子が先に頭を下げたので、海もそれにならって頭を下げる。そのたどたどしい素振りに、正宗も靜も思わず笑ってしまった。

「いいえ。……シンデレラたち、くれぐれも時間だけは気をつけてください」

 ええ、と頷き、先に透子が店を出た。

 続いて海が出ようとして、……おもむろに振り返った。

「……ありがとう。本当にありがとう。二人のおかげで、彼女とまた出会うことができた。最後にもう一度だけ、会いたかったんです。これ以上、幸せなことはない」

 ぺこりと頭を下げ、そして海もまた、店を出てゆく。カラン、と心地良いドアベルの音がこだまして、店内は再び静寂を取り戻した。

 正宗も靜も、その後の彼らがどうなったか知る由もない。これからは、彼らが自分で決めて行動することだから。だから魔法使いは口を出さない。そうあるべきだと思うのだ。

 こうして、彼らは次の来客を待つ日々へと戻るのである。

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