作家が喜び、凹むとき ―評価といかに付き合うか―
いつものごとく、個人的な意見です。
こういう人もいる、と一つの参考になれば。
Twitterで、とあるラノベ作家の方が言っていた。
「作り手を喜ばせたり凹ませたりするのに、多くの言葉はいらない。『作品面白れぇ!』で天に昇り、『作品つまんねぇ』で地に堕ちる」と。「人格攻撃や誹謗中傷よりずっと効果的だ」と。なるほど、そういうものか。
私も確かに、昔のことを考えるとそうだったような気もする。作品は自分の分身だし、ある意味で自分自身への評価よりも、作品への評価の方が感情に直結するのかもしれない。
でも同時に、今の自分はそうではないな、と言う気持ちの方が強かった。むしろ自分がかつてそうだったと言う事を忘れていたという事実に、そのツイートを見て気付かされた。自分の態度やスタイルは、気付かないうちに、当然のように、塗り変わっていた。多分明確な転換期があるわけではなく、少しずつ、少しずつ……
創作スタイルは百人いれば百通りあると思うし、作品に対する態度も、モチベーションも、考え方も人それぞれだと思う。だからどれが良い、悪いということはないと思っている。
それを前提とした上で、今の自分が作品を、創作を、一体どのように捉えているのかについて少し書いてみたい。
私はまだ駆け出しで、十分な評価を得られているわけではない。しかし、将来プロの作家になることを目標として勉強させていただいている身ではある。その中で考えたり、他の人生経験から引き出してフィードバックしたものが、ある一人の物書きのあり方として誰かの参考になれば、と思う。
まず先に、私は作品への評価が感情に直結しにくいと、そう書いた。それは少し訂正したい。正しくは、作品への悪い評価が感情に直結しにくいのだ。自分が一生懸命作った作品だ。良い評価を受けたら、それはもちろん非常に嬉しい。天にも昇る気持ちだというのは、間違いではないだろう。その点は昔から変わっていないと思う。
ではどこが変わったのか? それは明確に、悪い評価に対するモチベーションだ。私は悪い評価を受けてもあまり凹まないし、むしろありがたいと思うのだ。ただしそれは、どこが悪いのかを同時に指摘してもらえる時に限るのだけれど……
私は作品を作るときに、その作品自体を自分にとっての終着点であると言う感覚を全く持っていない。常に一つ一つの作品が、そのときに全力でたどり着く目的地であると同時に、自分の書き手としての長いキャリアの中のメルクマールであるような、そう言う気持ちで作品を作っている。だからこそ私にとって何より大事なのは、今まさに書いている作品と、今まさに作品を書いている自分を、常に相対化して考えることだ。
つまりそれは、自分自身で作品の良い所と悪い所、自分の出来ることと出来ないことを同時に把握しようとすることを意味する。良いとこばかりの作品は作れないし、何でも出来るわけじゃない。むしろ、出来ないことの方が多いのだ。初心者なのだから。
だから常に、それを意識する。初心者を抜け出すために。いつか「何でも出来る」作家になって「良いとこばかり」の作品を作るためには、回り道をしているような暇はないのだ。出来ることは伸ばし、出来ないことを一つ一つ出来るようになっていく。それが作品を作り、同時に作品を読むときのモチベーションになっている。
つまり私にとって、自分の作品と言うのは一番の分析の対象なのだ。書いているときには気付けないような美点や欠点を、何度も読み返して一つ一つ意識していかなければならない。そう言う気持ちを持っているから、多分、誰よりも自分の作品を知っている自信がある。それは当然のように思われるかもしれないけれど、意外と当然のことでもない。特に、ポジティブな気持ちで作品を作っている限りにおいて、作品の欠点と言うものは見えにくくなりがちである。実際私も、指摘されて始めて気付いた欠点に驚かされる経験を何度かしてきた。
そう言う私にとって、欠点の指摘とは何か?それはある意味で答えあわせであり、ある意味で財産である。
指摘された欠点が自分で気付いていたものの場合、それは「自分の感覚は正しかった。その方向で努力すれば良い」と確証してくれるものになる。逆に、指摘された欠点に気付いていなかった場合、それは「新たな課題を教えてもらった。これからの糧になる」と言う利益に他ならない。
それだけ聞くと、何だ当然じゃないかと思う人も少なくないと思う。実際、よく言われることだと思う。批判を真摯に受け止めるべきだ。それは今後の課題を教えてくれるのだと。でもそれは、実際にやろうと簡単なことではない。どうしても批判を受けたときには気持ちが沈みがちなものだ。なぜか?
その分水嶺になるのは、普段の分析の頻度と深度だと思っている。分析すればするほど、対象は相対化される。つまり、自分を分析すればするほど、自分のことはある意味で相対化されて「他人のこと」になっていく。それが良い事なのかは分からない。しかし、自分と言う人間を動かしているパーソナリティー、主体としての自分と、実際に行動を行い、社会と関係性を結び、評価を受けている客体としての自分と言う人間同士が乖離する。主体としての自分は、その客体としての自分を上手く操り、育て、目標を達成するプレイヤーになる。そう言う立場から見ていると、操作キャラとしての自分の成果物やステータスが批判を受けたとしても、それらは全て攻略のヒントに還元される。それはつまり、攻略の効率化にとっては、間違いなく良い事だと考えられるのだ。
そのような考え方で創作活動をすることを、もしかしたら快く思わない人もいるかもしれない。その人は、芸術家の感性を持っているのだろう。効率化や合理化に囚われず、ひたすらに「良い」と思ったことを追求する。そう言う姿勢が作品に「魂」を宿らせるし、そういう命を吹き込まれた作品でなければ、人を感動させることは出来ない。
素晴らしい。美しい。これぞ芸術家だ。出来ることなら私もそのようになりたかった。実際に私の尊敬する芸術家の中にも、そのような人が多いだろう。しかし残念なことに、私にはそのような天才的な感性がなかった。天から啓示を受け、霊感が身体を突き動かし、あらかじめ存在する芸術にただ形を与えていく機関として自らを規定できる、そのような素質を、生まれ持つことが出来なかった。
では敗北か、いや違う。そんなことで負けてたまるかと思う。だから私は、効率的に努力する。人生は有限だ。時間は限られている。その中でどこまで到達できるのか?その鍵を握るのは効率だ。割り算が出来れば、誰でも分かる。限られた時間の中で、最大の結果を残すためには、一秒あたりの成果を最大化する必要があるのだ。最も速く走るものが、最も遠くにいけるのだ。私はもっと速く走りたい。
努力。努力について考える。日本では特に、努力と言うものをそれ自体として尊いとする風潮が根強く残っていると思う。私はそれに違和感を覚える。結果が伴わなくても、努力したこと自体に価値がある。本当にそうか?
私はむしろその考え方を危険なものだと言いたい。それは思考停止ではないか?努力と結果は完全に対応しない。本当に価値のある努力をして、十分に尽くしたけれど、運に見放され結果を得られなかったということは確かにあることなのだ。だけど、それでも、努力の質に問題があったのだというケースは少なくないはずだ。いや、むしろ多いと言いたい。
努力の神聖化、美しい考え方だと思う。努力することには労力がいる。痛い。辛い。やりたくない。だれでもそうで、ただただ努力をして結果を得られないのだったらそんなものに熱中するのは真性のマゾヒストだけだ。しかし、努力の過程では結果が確約されるわけではない。確信のないまま、確約されない未来のために、辛い努力を引き受ける。それは理不尽だ。そう言う理不尽を受け入れていく為に、人間が編み出した方法が努力自体の神聖化なのだと思う。例え結果が得られなかったとしても、努力したと言う時点で価値が発生しているのならばそれは無駄にはならずに済む。そう言うセーフティーネットを張る行為が努力の神格化だ。
しかしそれは同時に、努力の質を高める動機を疎外している。努力は実らねばならない。努力のためにつぎ込む労力が多大だからこそ、その効用は最大化されなければならない。その点には真摯に向き合わなければならない。本当に意味のある努力を選別し、効率的に努力をする。それは漫然と努力するよりもさらに労力を必要とする。その茨の道を選ばない言い訳に、思考停止の正当化に、努力の神聖化が悪い仕事をしていないか?「実らない努力に意味はないよ」と、はっきりそう言われていても、それでも漫然と努力しますか?
私は絶対にしたくない。努力は手段だ。目的じゃない。限られた時間の中で、得られるものを全て得る。無駄にしない。だから妙な神話には騙されない。頭を使え。考えろ。戦略を立ててハイスコア。ゲームと同じだ。達成したい目的があるのだ。その目的に対して誠実になるということは、突き詰めていけばそういうある意味で情熱とは対極とも言えるような姿勢に帰着するようにも思える。
しかし、私は情熱を否定したくはない。私を突き動かすパッションは、確かに人生で必要なものなのだ。精緻に分析し、方針を立て、効率的にハイスコアを狙う。それは物凄く労力がいることなのだ。そしてその道中、何度も自己否定を繰り返し、それを受け入れていかなければならない。それはとても痛いことなのだ。その痛みに耐え、それでも、それでもと先へ進み続ける。そんな中で、自分が折れないように支えてくれるもの、私はそれが情熱なのだと思っている。今のところ、まだ折れてはいない。私の情熱は、まだ生きている。まだやれる。
「熱くなるのはいい。だが、焦んな。喧嘩に勝つには熱いハートとクールな頭脳だ」
私の大好きな言葉だ。喧嘩だけじゃない。何を成し遂げるのも同じだと思う。情熱と理性は両輪だ。それは実践と理論が両輪であるのと同じように、どちらがかけてもダメだと思う。
だから私は、努力を効率化したい。少しでも少しでも効率的な努力を編み出し、そしてこれ以上ない熱量で、その努力を実行したい。
限られた人生を、無駄にしたくはない。
人生の残り時間、どの程度あるのかなって数えてみると、無限ではないんだと言う当然のことに気付き、焦ります。