仕事を抜けて文化祭に行く(牧田視点)
当たり前のことってなんだろう?
その朝、なぜかそんなことを思って目覚めた。
顔を洗って、ふかふかのタオルで拭く。
たとえばそう、このいつも清潔で柔らかいタオルは当たり前のように洗面所に用意されている。
パリッと糊付けされ、きっちりアイロンをかけられたワイシャツもそうだ。
毎朝、当たり前のようにそこに置いてある。
それから、台所からリズミカルな包丁の音と、芳しい出汁の香りがして、色とりどりの綺麗で、でも、栄養バランスが考えられたお弁当が、包まれるのを待って―――いるはずだったのに、なぜか、誰もいない。
整理整頓された台所は、まるでずっとそうだったかのように人気がなかった。
「小巻!?小巻!!!」
そんなことあるはずないのに、俺は慌ててその名を呼んだ。
いつも、当たり前のように呼んでいる名前を―――。
「融?どうしたの?何か無いの?」
返事がベランダから聞こえた。
「小巻……そこにいたんだ」
「そうよ。今日は天気が良いって、予報で言っていたから、洗濯しておこうと思って。
……ネクタイ半分よ。今朝、早出じゃないんでしょう?何焦っているの?」
小柄な小巻は、少し背伸びをして、俺のネクタイをしっかり結び直してくれた。
「まだ時間あるなら、洗濯物を干すの、手伝ってよ」
「……ああ」
俺はタオルを干しながら横目で小巻を見た。
エプロンをして、髪をひとくくりにして、鼻歌を歌いながら手際よく、洗濯物を干していくその姿は、いつもと変わらない、当たり前の光景だった。
今日も一日、当たり前の一日が始まるはずなのに、どうして、俺は疑念を抱いてしまったのだろうか。
もしかして、俺・牧田融が、新規事業を立ち上げるという高校時代からの親友・小野寺冬馬に引き抜かれて、それまで勤めていた出版社を辞めることになったからだろうか。
それは確かに変化だった。
親友であり、上司でもある小野寺冬馬は、初めて会った頃は篠田冬馬と名乗っていた。
それが母親の再婚により、一躍、小野寺グループの御曹司となる。
長くアメリカで留学・就業して後、満を持して小野寺グループの中枢である小野寺出版の社長として赴任してきたのは、そんなに昔の話ではない。
小野寺出版で秘書をしていた俺は、それを機に、秘書室長に昇格し、社長である冬馬付となった。
実は、それを狙って、小野寺グループに就職していたのだ。
もともと、自分を出すよりも、誰かの補佐をするタイプだった俺は、高校時代には二年の半ばでやり投げ選手を諦め、陸上部のマネージャーになっていたほどだ。
就職にあたって、俺はそんな性格を活かしたかった。
そこで目を付けたのは冬馬だ。
いくら人の補佐をするのが好きだからと言って、尊敬も出来ない無能な人間の下には付きたくない。
その点、冬馬は同い年だけど、偉い奴だと思っていた。
中学を卒業してすぐに母親の手伝いとはいえ、その会社で社員として働き、一年遅れで高校の定時制に入学してきて、働きながら勉強をしていた。
根性はあったし、賢いし、何より、気が優しかった。
連れ子だからと、そんな立場だけで侮られるような奴じゃない。
ただ、親友を助けたい気持ちがあっても、どうすればいいのかよく分からなかった。
とにかく、小野寺グループに入り込めば、なんとかなるだろう。
そんなふざけた態度が祟ったのか、なかなか内定が出ず、焦った日々もあったが、なんとか職場は決まった。
それも、小野寺グループの大社長である冬馬の義父が、一番、力を入れている小野寺出版にだ。
どことなく、裏を感じなかった訳ではない。
冬馬の義父も、息子の立場の危うさを認識していたからこそ、彼の力になる生え抜きの側近が必要だと俺に目をかけてくれたのだと思う。
若くして秘書室長になれたのもその為だ。
期待に応えて、精一杯補佐しようと決意したのに、当の本人は突然、出版社の社長を辞め……辞めさせられ、フランスに放逐されてしまった。
おかげで、こっちは、冬馬をもっとも嫌う井上という男の下で働くことになり、大分、鬱屈を貯めることになった。
おまけに、由来正しい元・御曹司までご帰還あそばされ、小野寺内部は大混乱を極めた。
その経緯には、一人の女の子が絡んでいるのだが、とにかく無事に事態は収集した。
しかし、冬馬は出版社には戻ってこなかった。
フランスに行く理由になったカフェ出店を本格的にすることにし、その出来上がっても無いような会社組織に、俺を組み入れた。
冬馬は小野寺の御曹司として、今後、グループ内の様々な業種を経験させられる予定であるが、どこに行っても、俺は専属としてついていくことになったのだ。
思った以上に、一蓮托生だ。
男たるもの、与えられるものだけでなく、新しいものにチャレンジしたいものなのかね。
俺の人生の安泰もかかっていることだし、あまり冒険はして欲しくないんですが。
受験や就職といった、避けられない人生の節目以外は、出来ればいつもの通り、当たり前の日々を過ごしていきたい俺としては、今の事態は想定していなかったことだ。
うん、だからこんなにも、当たり前のことが、逆に新鮮に感じられるのだろう。
「お弁当まで作ってもらって、悪いな」
「え?なぁに、今頃?
別にいいわよ。私も給食が無い日は、お弁当を持っていくから、一個作るのも、二個作るのも同じこと。
昨日の晩御飯を詰めて、お弁当一個につき、三百円貰えるなんて、ラッキー」
洗濯物を干し終わって、台所に戻れば、先ほど、あれほど無機質に見えた場所がぬくもりに包まれた。
お弁当はちゃんと詰め終わって、やっぱりきちんとアイロンが掛かった布で包まれていたし、蓋を開ければ、鍋から湯気が立ち上った。
何も不安に思うことなんかなかったのだ。
「小野寺出版に居た頃は、ほとんど社食だったけど、ほら、今回の移動で給料減ったから……」
俺と小巻は、二人で生活費を出しているが、それぞれのお小遣いや必要なものは、各自出すことになっている。
昼ごはんも、それまでは自分の小遣いから出していたのだが、少しでも節約しようと思い、小巻が務める幼稚園で、給食が無い日は一緒に作ってもらうように頼んだのだ。
勿論、無料なんてことは出来ないので、一食三百円でお願いしている。
今時、三百円で、これだけのお弁当は、なかなか食べられない。
そんな今朝の分の三百円を、小巻はアニメ風のイラストの切り抜きを貼った缶にしまった。
「うふふふふ、これを貯めて藤堂先輩モデルの指輪を買うんだ〜」
……藤堂先輩とは小巻が大好きなゲームに出てくるお金持ちの家の御曹司にして、美しく賢いという、どこかの誰かさんを彷彿とさせる人物設定な上に、顔まで似ているというキャラクターなのだ。
作中で代々、藤堂家の妻に送られるという指輪が出てきて、ヒロインとなったプレイヤーは、最終的にそれを贈られることを目指して頑張るのだが、実際に、それを模した商品が、この度、販売されることになった。
限定受注予約販売な上に、こだわって作られている本物志向の商品なので、ちょっとしたブランドの指輪と同じくらい高い。
それを買うために、小巻はコツコツと藤堂先輩貯金をしているのだ。彼のイラストを貼った貯金箱代わりの缶に。
「ごちそうさま。美味しかったよ。ありがとう」
「……ええっ???」
味噌汁を飲み干して、そう言うと、小巻はビックリした顔をして、それから、「今日はおかしいわよ。体調でも悪いの?」と心配された。
小巻が朝食を用意してくれるのを、当たり前だと思いすぎて、お礼もご無沙汰だったようだ。
玄関まで見送ってくれた彼女からごみ袋を受け取り、「いってきます」の挨拶をして、家を出る。
ドアが閉まるまで、小巻は俺のことを心配してくれていた。
今日の仕事の一つは、カフェのテイクアウト用の紙袋のデザインについての検討。
デザイン事務所に出来上がったサンプル品を取りに行く。
これも今までなかったことだ。
出版社にいた頃は、デザイン事務所の人間が持ち込んできたものだ。
それが、今は社長である冬馬自らが足を運ぶ。
俺もそれについていくが、デザインについての意見も求められる。
「小と中の出来は良かったけど、大だと妙に間延びしたデザインになるな」
その場で気づいた修正点を話し合った後、社に持ち帰って検討するとサンプルを持って帰る途中、冬馬が難しい顔で言った。
「そうですね。思い切って、三種類とも違ったデザインにするのも面白いかもしれませんね」
などと、話している間に、俺はあれ?と思った。
真っ直ぐ会社が間借りしている小野寺物産のビルに戻るかと思いきや、方向が違う。
「社長?道、間違ってますよ」
「―――牧田、悪い。ちょっと寄り道」
冬馬が指を指す方向には、稚拙だけど勢いと華やかさのある飾り付けを施された大学の門扉があった。
「あ〜あ、真白ちゃんの大学の文化祭?」
「……時間、あるだろう?」
椛島真白嬢は、冬馬の最愛なる婚約者だ。
年の差、十四歳。現在、十八歳の花の現役女子大生。
可憐、可愛い、性格、スタイル共に良し。
婚約者のことを、一途に恋い慕う様子は、危ういほどのいじらしさ。
挙句に、小野寺家の正当なるお血筋にして、雨宮財閥の縁続き。
男だったら、うらやましいぜ、この野郎!と言いたくなるような子なのだ。
冬馬は彼女が女子高校生の頃から、それと分かるほどにメロメロだった。
本人的にはひた隠しにしているつもりだったろうが、バレバレだったよ、冬馬くん。
どんな相手にも平等公平な優しさを崩さなかった男が、彼女の前だけでは我を忘れ、動揺し、本気になって怒る。
密かにみんなで面白がって、それから真剣に心配した。
何しろ、その当時の冬馬は、自暴自棄気味で、女性との付き合いはとっかえひっかえ激しい割に、長く続かず、適当に政略結婚に走ろうとしていた。
期せずして小野寺家の御曹司になった冬馬には、様々な屈託があっただろうし、不遇だった少年時代の苦労が、人格形成になんらかの問題を起こしているのだろうとは、みんな気づいていたのだが、表面的には優しく有能なだけに、指摘する機会もなく手をこまねいたいたのだ。
そこに現れた真白ちゃんは、みるみる間に、冬馬の頑な心を溶かし、傷ついた心を癒していった。
だから、二人が付き合えばいいのに、と彼を知るものは、望んだものだ。
いろいろこじらせまくっていた冬馬が決心するのは、真白ちゃんが高校生ということもあって、時間がかかったが、見事、二人は結婚の約束までこぎつけた。
それからはもう、これまでの鬱憤を晴らすかのように、冬馬は真白ちゃんラブ!一直線だ。
良きかな、良きかな。
それくらい、俺は大歓迎だ。
でも、一応、秘書兼、共同経営者として取り繕っておく。
「よろしいと思いますよ。
真白ちゃんは、我が社に資金提供をしてくれる雨宮財閥と、強力にバックアップしてくれる本社の家の娘さんですからね。
ご機嫌伺いした所で、仕事の内……ということで」
「ありがとう」
冬馬はさらっと、感謝の言葉を口にする。
こいつにとっては当たり前のことなのだろう。
結婚した後も、真白ちゃんへの感謝を忘れたりはしない。
「牧田?お前は行かないのか?」
ふと、押し黙った俺に冬馬が不審そうに聞いた。
「ええ!行く行く!当然。
真白ちゃんのサークル?あ、同好会だっけ?
模擬店やってるんだろう。
可愛いメイドさんの扮装とかしてたりして、楽しみ」
学祭だし、そういうのもありだろうと、からかってみたら、すっげぇ、怖い顔で睨まれた。
社長の婚約者に変なこと言ってすみません。
内心、冷や汗をかきながら、謝っていると、その耳に、恐ろしい会話が聞こえてきた。
「おい、本当にそんな可愛い子がメイドやってるのかよ?」
「らしいぜ!さっき、行った奴から連絡が回ってきた。
ものすごく可愛くって、スタイル抜群で、まじ、アイドルみたいなんだってさ」
「写メ撮ってないのかよ」
「いや〜、それがさ、なんか写真撮影禁止みたいで。
ちょっとでも怪しい動きをすると、クマみたいな怖い顔の警備員につまみ出されるんだって」
「はぁあああ、なんだよそれ?」
「だからさ、どんだけ可愛いのか、見てみたいだろう?
早く行こうぜ!!!」
恐る恐る冬馬の顔を見ると、案の定、こわばっていた。
ああ、行くの止めたい。
でも、行くしかないのだ。
ずんずんと進む親友の後ろを、ドナドナを唱えながらついていった。