真白ちゃんとの思い出?(冬馬視点)
俺がその子に会ったのは、小野寺家にやって来て二年経った二十歳の頃だった……ような気がする。
昔の記憶だから、あやふやなんだろうけど、その子が不細工なクマのぬいぐるみを大事そうに抱きしめていたのははっきりと思い出せる。
椛島真白ちゃんと紹介されたその子は、六歳で、両親から引き離され、突然、大きなお屋敷に連れてこられて戸惑っていた。
運転手の井上さんや警備の武熊さんが、山のようにおもちゃの箱や可愛いぬいぐるみを抱えていたが、それですら、彼女の不安や心細さを救ってはくれないようだ。
その子は、俺の末の弟、夏樹の婚約者としてこの屋敷に招かれたのだ。
父親がこの家の本当の跡取りで、メイドと駆け落ちして出来た子供が真白ちゃんなので、後妻として入った俺の母親と、連れ子の俺達との縁を結ぶ役割を、その幼い身に背負ってしまった。
可哀想だ、と思った。
年端もいかない、恋も知らない、小さな子供の将来を勝手に決めるなんて。
でも、反対出来なかった。
俺の立場は弱かったし、夏樹の為にもそれが理想的な判断だと無理やり納得させた。
なのに、もう一人の弟の秋生は反発しているし、夏樹も興味がなさそうに、小さな子を一瞥しただけだった。
十四歳という難しい年頃の男の子だ。それも仕方が無い反応だが、怯える少女に少しは優しくしたっていいじゃないか、と憤った。
涙目になった女の子の頭を撫でて、飴を上げたら、ますます泣きそうな顔をされた。
「あっ……ミント飴だから、辛いのか!」
俺も小さな女の子とはとんと免疫がない。
良かれと思ったことが逆効果だ。
慌ててティッシュを取り出す。
「ごめん、吐き出していいから。ここに、ペッとするんだよ」
言われた通り、飴を口から出した女の子は、愈々泣きだした。
弟たちはうんざりした顔をして、どこかに行ってしまったし、申し訳ないことをしたと思ったので、その日、俺はその子をなだめて過ごした。
真白ちゃんは本が好きだったので、いろいろ読んであげると喜んでくれた。
特に『平家物語』に興味を持った。
最初は牛若丸の話をしたのに、もっと詳しいことを知りたがり、うっかり「祇園精舎の〜」とやったら、その音の響きが格好良かったのか、喰いついてきたのだ。
いちいち説明しながら話したので、牛若丸が生まれる前に、俺の夏休みは終わり、アメリカへと帰ることになった。
その頃、俺はアメリカに留学していて、だから、真白ちゃんとの記憶は断片的だった。
夏樹は相変わらず彼女を邪険にしていたので、もっぱら俺が真白ちゃんの面倒を見ていた……ような気がする。
どうも記憶があやふやで、よく思い出せないのはなんでだろう。
とにかく、『平家物語』を三年かけて読み終わったあと、彼女は『源氏物語』を読み始めた。
小野寺邸の一室だろうか、どこかの部屋で、彼女はうつ伏せになって本を読んでいた。
白いページに、黒い髪の毛が流れ落ちる。それが邪魔なのか、耳にかけては、熱心に読み耽った。
まるで若紫のようだな、と、ふと思った。
しかし、小学生向けに編集されていたけど、少女にはまだ早すぎたようで、困った顔で持ってこられたけど、こちらも、どう説明していいものか迷ってしまう。
他の男の女を奪う話や、自分の気に入った女の子を浚って、自分好みの妻に育てる話なんて、古典的名作だけど、小学生にどこまで教えていいのか分からなかった。
「『平家物語』が好きなら『太平記』の方がいいかもよ」
苦し紛れに、別の軍記物を勧めた。
俺は多分、予感がしていたのだ。
他の男の女を奪う話や、自分の気に入った女の子を浚って、自分好みの妻に育てる話から目を背けたかったに違いない。
真白ちゃんは可愛かった。
俺のことを慕って、日本に居る時は、トコトコと後ろを付いてきた。
振り返って目が合うと、嬉しそうに笑った。
それがたまらなく愛おしい存在に映った。
十四歳も年下の子供に、こんな感情を抱くなんて、俺はきっと変態に違いない。
そう思ったから、年上の女性と付き合うようになったんだ、そうだ、そうに違いない。
中学生になり、夏樹はようやく真白ちゃんを認識し始めた。
周囲もそろそろ結婚の準備のお膳立てをしようと、二人揃って、義父が観劇や散策に連れだした。
真白ちゃんのバレエの発表会にも呼ばれたらしい。
何を踊ったのか、俺は知らない。俺は関係者だけど、部外者だったからだ。
二階にある自室から、夏樹と真白ちゃんが義父と一緒とはいえ、仲良く歩いているのを見ると辛くなった。
ノースリーブの白いワンピース姿で麦わら帽子を被った真白ちゃんは、なぜだかとても悲しげだった。
なぜだろう?なにがそんなに悲しいのだろうか?
夏樹がフランスに留学することを決めたからだろうか?
末の弟と入れ違いに、俺は日本に帰ってきた。
真白ちゃんは夏樹が居ないのに、俺の前に現れた。
前よりもずっと鮮やかで生き生きした姿をしている。
その肉体の温もりも柔らかさも、まざまざと思い出せる。
彼女は高校生になっていた。
もう自分が夏樹と結婚することになっていることを十分、理解していた。
それなのに、彼女は夏樹のいない小野寺邸にやってくる。
俺の前に現れる。
「若社長!」
嬉しそうに俺のことを呼ぶ。
綺麗で可愛い真白ちゃん。
なんで夏樹のものなんだろう。
「私、若社長のこと、好きです!」
まっすぐな瞳で俺に告白する。
頬を赤らめ、恥じらう真白ちゃん。
なんでそんなことを言うのだろう。
君は夏樹と結婚するんだ。そして、小野寺の家を継ぐ。
君は夏樹のものだ。
弟の婚約者を好きになるなんて、許されることじゃない。
「俺は真白ちゃんのことは嫌いだ。君とは一緒になれないんだ」
敢えて厳しい言葉を掛けた。
真白ちゃんが泣きじゃくった。ひどい顔だ。
でも、言わないと。
「真白ちゃんとは結婚出来ない。嫌いなんだよ、俺を困らせないで」
『冬馬さん!』
真白ちゃんが俺を呼んだ。
『冬馬さん!起きて!!!』
身体を揺さぶられて、気づくと、俺は真白ちゃんと顔を付き合わせていた。
真白ちゃんは大人になっていた。
二十歳を過ぎて、俺の……俺のお嫁さんになっている。
ここはそんな俺たち夫婦の寝室じゃないか。
「ま……しろちゃん!」
「ひどい……冬馬さん、私のこと嫌いって」
彼女の目に涙が浮かんだ。この顔は、小さい頃と変わらない。
いいや、俺は彼女の小さい頃なんて知らない。
初めて会った時、彼女は高校生だった。
「違っ!誤解だよ、真白ちゃん。
夢を……そう、夢を見ていたんだ。君を嫌いになったりするもんか!」
弁明したのに、真白ちゃんの顔色が変わった。
「夢!?」
「うん、ちょっと夢を見ていたんだ……って真白ちゃん!?」
ベッドから抜け出した真白ちゃんが着替え始める。
「どこに行くの?」
「……実家に帰るの!」
「はぁああああ?」
実家ってどこだよ?
彼女には頼る家が多い。
父親の家もあるし、養女になった雨宮家、そして、父親の実家でもあり、一応、俺の実家でもある小野寺邸。
どこに駆け込まれても、彼女は受け入れられ、俺は非難の的になる。
それだって、こちらのせいなら、受け入れる。
でも、今回のことは納得出来ない。
夢の中の話じゃないか。
「待ってよ、真白ちゃん。
こんな時間に移動するなんて、危ないよ。
せめて朝まで待って」
そうしたら冷静になるかもしれないと思い、提案してみたがすげなく断られた。
仕方が無いので、俺が真白ちゃんを彼女の実家とやらに送ることにした。
ああ、そうだよ。
俺は真白ちゃんには甘いんだよ。
たとえ、怒って実家に帰ると言われても、送っていくほど、彼女が大事なんだ。
車の助手席に、彼女は思いつめたような顔で座っていた。
実家は小野寺邸だった。
悪いことに、真白ちゃんの父親が気まぐれで滞在していた。
夜中に真白ちゃんと俺が来て、小野寺邸には一斉に明かりが灯った。
俺を歓迎してくれたのは、小野寺邸で飼い始めた猫くらいだ。
食堂に義父、母、義兄であり義父、弟夫婦、そして、やっぱり居た夏樹が裁判官のように揃った。
その前で真白ちゃんは俺に「嫌いだ」と言われたと泣いた。
「うちの真白を嫌いだと!」
椛島真中が憤慨した。
その顔を見て、俺は夢の原因を発見した。
「あなたのせいですよ!!!」
思わず怒鳴ってしまった。
「はぁ?なんで私のせいなんだ!」
「あなたが、真白ちゃんのアルバムなんて持ってくるから!!!」
「お前も見たいって言っただろうが!!!」
テーブルを叩き合って喧嘩をし始めた婿と舅に、その両方の父親が一喝した。
「落ち着きなさい!……一体、何があったんだ」
その問いかけに、俺が答えた。
昼間、椛島真中に真白ちゃんの小さい頃のアルバムを見せられたこと。
そこには、当然だけど、俺の知らない真白ちゃんがたくさんいて、そのどれもが可愛くて。
母親の作った不細工なクマのぬいぐるみを大事そうに抱きしめる真白ちゃん。
理由は分からないけど大泣きしている真白ちゃん。
少年少女向けに書かれた古典文学を読む真白ちゃん。
バレエの発表会に挑む真白ちゃん。
夏に撮られただろう、白いワンピース姿の真白ちゃん。
つまり夢の中に出てきた彼女たちの記憶は、昼間に見た写真からおこした記憶だったのだ。
どうりで断片的であやふやなはずだ。
中学生の真白ちゃんが悲しげだったのは、母親の闘病の時期だったからだろう。
高校生になると、途端に記憶が鮮明になったのは、実際の記憶の裏付けがあったからだ。
「それでどうして、真白ちゃんを嫌いってなるの?」
夜中に起こされて……って、もしかしたら、まだ寝ていなかったかもしれない夏樹に問われた。
出来れば、違う人に質問されたかったよ。
「―――だからさ、真白ちゃんの小さい頃に会いたかったなぁ、と思って」
「それでなんで?」
さらに突っ込まれる。
「―――だから!その可能性があるとしたら、真白ちゃんが夏樹のお嫁さんとして連れてこられるくらいしかないだろう?」
末の弟が絶句した。
俺だってその可能性を真崎さんに指摘された時、同じ気持ちだったよ。
「そんなことを思って寝たら……そんな夢を見て。
そうしたら、夏樹のお嫁さんになるはずの真白ちゃんが俺のこと好きだって言うから……言うからさぁ。
夏樹の為に断らないといけないと思って必死だったんだよ。
大体、お前が悪いんだ。フランスに行ったきり、真白ちゃんを一人置いて、音信不通……」
「それは冬兄だろう!!!」
夏樹の憤りを通り越した絶叫が響く。
「なんとも都合の良い夢を……」
秋生は呆れ果てていた。
朝が早いのに、こんな犬も食わないような話を聞かされて、すぐにでも寝室にもどりたそうな顔になった。
その妻の瑠璃子さんはもう少し好意的で面白がっていた。
「ですって。結局は真白ちゃんが大好きなんだから、そんなに怒らないであげて」
しかし、そんな瑠璃子さんの有難いフォローに真白ちゃんは首を振った。
「真白ちゃん、謝るから、怒らないで。お願いだから」
俺も懸命に謝ったが、真白ちゃんは泣くのを止めなかった。
「だって、夢……怖い夢なんか見ないって。私が居たら見ないって言ってくれてたのに。
すごく嬉しかったのに。なのに、そんな夢を見てうなされていた。
私の力が弱くなったの?それって、私のこと……」
「違う!!!……そうじゃないよ」
食堂中の視線を感じる。
「原因は分かったようだから、もう私たちは必要ないでしょう。
さぁ、行きましょう」
母が気を遣って、みんなを其々の寝室に促した。
椛島真中は不本意そうだったが、この場に居ても不愉快なだけだと気づいて、立ち去った。
壁に耳は残ってそうだけど、もう、そんなこと気にしている余裕はなかった。
真白ちゃんの隣の椅子にかけると、手を取った。
「今でもその力は有効だよ」
「嘘」
「嘘じゃないよ。怖い夢なんか見ていない。君の夢だよ」
ようやく、俺の方を向いた真白ちゃんはまだ不安そうな目をしていた。
「小さい頃の君に会ってみたかったんだ。違う運命でも、好きになってくれたこと、俺の妄想でも光栄だ」
「なのに、夏樹さんのお嫁さんにしようとした」
暗い虚ろな表情になった。
こういう顔は真白ちゃんには似合わない。
「いや、そうはさせなかったよ。
夢がもっと続いたら、俺は君を手に入れたはずだ、絶対に」
自信はないけど、そう言っておく。
あれは夢なんだから、どうとでもなるはずだ。
起らなかった過去は、今後も無いことだ。
そして、現実は―――「君は俺のお嫁さんだ」。
「本当に?」
「本当だよ。さぁ、おいで」
真白ちゃんを抱き上げる。
「お家に帰ろう?俺たちの家に」
「はい!……あの、ごめんなさい。
私、すごくショックで。だって、冬馬さんからあんな風に嫌いだなんて言われたこと……なかった……から」
また泣き始めたので、俺は背中をトントンと叩いた。
俺が真白ちゃんを突き離していた時だって、そんなあからさまな拒絶はしなかった。
さぞや傷ついただろう。
「いいんだ。いいんだよ。
俺こそ、夢とはいえ、ひどいこと言ってごめんね。
もう絶対に、あんなことは言わない。
愛しているよ、俺のお嫁さん」
そう言うと、腕の中の真白ちゃんは、俺の首にすがりついた。
小さい頃の真白ちゃんに会えなかったのは残念だけど、だからこそ、今の真白ちゃんとの生活があるのだと思う。
こんなに幸せなのに、欲はかくまい。
「でも、可愛かったから、あのアルバム、欲しいね」
「止めて下さい。また変な夢を見ますよ!
冬馬さんって、想像力ありすぎます」
「そ……そうだね」
確かに写真だけで、あそこまで話を作れるって、俺も相当、夢見がちだ。
椛島親子のことを言えない。
「そうですよ。
ちゃんと現実世界に私がいるのに、まだ足りないっていうんですか?」
「うーん、足りないかな。今夜は特に」
「えっ?」
戸惑う真白ちゃんをお姫さま抱っこして、食堂を出ると、壁の耳が冷やかに声を掛けた。
「夢の中の俺は知っていたんだと思いますよ。
冬兄が自分の婚約者に懸想していることを。
だからフランスに行ったりして、距離をとったんですよ。
俺はそういう男です。
それに、金輪際、誤解されないように言っておきますけどね、俺は真白ちゃんのこと、全然、タイプじゃないから!
ちょっと気に入らないことがあったからって、こんな夜中に冬兄が逆らえない義父や母に言いつけにくるなんて。
すげぇ我儘娘じゃないか!」
「なつきー」
俺の肩に真白ちゃんが申し訳なさそうに顔を埋めた。
「なんですか!この件に関しては、俺は謝りませんからね!いい迷惑ですよ!」
「ごめんなさい。反省してます」
「はぁ……もう遅いから、今から帰らなくても、泊まっていったらどうですか?」
真白ちゃんの謝罪に、ぶっきらぼうだったが、夏樹なりに、愛憎の妥協案を出したのだが、俺は断った。
「ありがたい申し出だけど、これから真白ちゃんと仲直りするから帰る」
「―――っ!やっ、そんな恥ずかしいこと、夏樹さんに言わないで」
真白ちゃんの体温が上がった。
夏樹も察したのか、顔を赤らめ、後ずさった。
三十年近く培ってきた兄としての尊敬の一部を失った気がするけど、この腕の中の愛おしさには変えられない。
「じゃあ、おやすみ、夏樹。いい夢を見ろよ」
俺はもっといい夢見よう。真白ちゃんと二人で一緒に。