篠田と牧田(真白視点、新婚)
夢を……見ていたのだと思う。とても怖い夢だ。
夢と言っても、以前、現実にあったこと。
『若社長』が刺された時の夢だ。
「真白ちゃん! 真白ちゃん!
大丈夫? ひどくうなされていたみたいだけど」
起こしてくれた冬馬さんに抱きついた。
滑らかなシルクのパジャマの下のしっかりとした筋肉と温もりに安心を覚える。
ここは私たちの家の二人の寝室だ。
大丈夫、何も怖いことなんかない。
「怖い夢でも見たの?」
「……ちょっとだけ。お仕事、終わったんですか?」
今晩中に終わらせないといけない仕事があると言うので、私は先に寝たのだ。
でも、そうね、パジャマも着ているし、石鹸のいい香りがするから、仕事は片づけて、眠りにきたみたい。
「終わったよ。そうしたら、真白ちゃんがうなされていたから」
くすり、と笑われたような気がして、隣に腰掛けた旦那さまを見上げる。
「ごめん。久しぶりに『若社長』って呼ばれたな、と思って」
「……キス? しますか」
以前はよく、罰としてさせられていたものだ。
今はもう、すっかり『冬馬さん』呼びに慣れてしまって、そんなこともなくなっていたのだけれども。
「いいや、そういう意味じゃないよ。懐かしかっただけ。落ち着いた?」
そう言うと、冬馬さんは優しく頭を撫でてくれた。
それからぎゅうっと抱きしめてくれて「俺は真白ちゃんが側にいれば、怖い夢なんか見ないのに……君は俺の側にいても見てしまうんだね。俺の力不足だ。ごめんね」と謝ってくれた。
勿論、そんなの謝ることじゃない。
それに、私が冬馬さんのドリームキャッチャーになっているのなら、こんなに嬉しいことはない。
「違うんです。夜に、怖いドラマを見たから……そのせいで、思い出しちゃったんです」
「思い出した?」
「……ストーカー……『若社長』が刺された時のこと……」
そっと、その部分を撫でてみると、冬馬さんが上衣を少しめくって見せてくれた。
傷はすっかり塞がっているし、目立たないくらいだ。
それよりも他の部分の傷の方が、刻みつけられたみたいに酷いのを、私は知ってしまっていた。
「どうしてそんな怖いドラマを見るの?」
昔の話をしたせいか、昔みたいな説教口調になった。
「だってぇ」
だからか、こちらも拗ねたような声が出た。
「だって?」
「―――犯人のトリックが気になって。どうしても、最後まで見たかったんですもの」
そのドラマはエリィが演じる刑事が様々な難事件を解決していくクライムサスペンスもので、とても面白いと話題なのだ。
ただ、今回の話は、私のトラウマを直撃してしまったようだ。
「困った子だね」
そうは言いながらも、冬馬さんは慈しむように、体勢を変えて、私を後ろから包み込んでくれた。
「もう大丈夫? 眠られそう?」
「もうちょっと、このままがいいです……お疲れですか?」
「いいや、全然」
後ろから吐く息がくすぐったいけど、安心する。
ただ、折角の時間なのに、黙っているのはもったいない気がする。
冬馬さんの会社は、最近、さらに業務を拡大し始めていたので、ここの所、ずっと忙しくしてるのだ。
「何か……話して下さい」
「えっ? ……うーん、何がいい?
むかしむかしあるところに―――」
「もう! また子供扱いして!!」
怒りかけたけど、思い直した。
「むかしむかし、あるところに冬馬さんと牧田さんという高校生がいました。
二人の出会いは……出会いはどんなだったんですか?」
「え……っ? なんで今??」
冬馬さんは戸惑ったけど、私としてみれば決して唐突な話題ではなかった。
「ほら、冬馬さんが刺されて、入院した時。
記憶が混乱していて、誰が誰か分からなくなっていたでしょ?
その時、牧田さんのことも分からなくなって。
冬馬さんが犯人の心配をしたら牧田さんが怒って……それで『お前と初めて会った時も、同じこと言われた』って言っていたのを思い出したの」
「よく覚えたね」
あんな大変な時に、そんなことを覚えているなんて、と呆れられたのかしら。
慌てて、言い訳をする。
「違うんです!
あの時は、すごく動揺していて、混乱していました。
でも、冬馬さんの意識が戻って……私、あの頃、冬馬さんのこと、ずっと目で追っていて、することなすこと、全部目に、耳に焼きつけたくって……だから……ひゃぅん!!」
いきなり、首筋を舐められた。
「可愛い子だね、君は。
俺自身が、覚えていなかったことだから、驚いたんだよ。
そうだね、聞きたい? ……けど、真白ちゃんが怖がるような内容かも」
「それでもいい?」と聞かれたので答えた。
「はい。平気です。冬馬さんが側にいるんですもの。何も怖いことなんて、ありません」
また、くすり、と笑われた気がしたが、今度はそのまま、話を始めた。
冬馬さんと牧田さんの出会いの話。
中学を卒業して一年後、高校の定時制に通い始めた冬馬さんは、その日も、夕方、通学路を歩いていた。
反対に、普通科の二年生になった牧田さんは、帰り道を急いでいた。
「春になって、温かくなるとね……」
私の肩に頭を預けた旦那さまが、少し言い淀んだ。
「えーっと、ほら、変な人が出てくるんだよ」
「変な人?」
「そう……不審者っていうの。露出魔とか」
渋い声が首筋にかかる。
「変態さんですね」
「さん、は要らないと思うよ」
学校近くになって、冬馬さんは女の子の叫び声を聞いた。
急いで駆け付けて見ると、同じ高校の女子生徒の前でコートの前を開けている男を見つけたそうだ。
ほぼ同時に、向こう側から牧田さんもその現場に出くわした。
『おっさん! 何してるんだよ!』
今も昔も正義感の強い冬馬さんが大きな声を出すと、変態男は慌てて逃げ出した。
それを二人の高校生が追った。
狭い路地を追いかけて行くうちに、挟み撃ちにすることを思いついた冬馬さんは、やや遅れて付いてきた少年にその旨を伝えた。
手ぶりと視線だったけど、意図は伝わった……はずだった。
ただ一つ、誤算だったのは「牧田は足が遅かったんだ」ということだった。
「陸上部のジャージを着ていたし、なんか見た目、短距離っぽい顔だったから、てっきり足が速いと思った」
でも、牧田さんはやり投げの選手で、走るのは苦手だったのだ。
牧田さんを脇道に行かせ、一人、男を追いかけた冬馬さんは、その後、あっさり、男を捕まえることに成功した。
しかし、そこで激しい抵抗にあってしまう。
走るのは得意でも、喧嘩は苦手な冬馬さんは、そこで男ともみ合うことになった。
いつまでたっても、牧田さんは来なかった。
誤算その二は、仕事の関係で地理に詳しかった冬馬さんと違い、牧田さんは学校周辺は通学路以外は不案内だったことだ。
脇道に逸れた牧田さんは、そのまま迷っていたらしい。
「あいつ、逃げたな」と思ったよ。
その内、組み伏せた男にも逃げられそうになり、つい、拳をふるってしまう。
暴力は、冬馬さんには不得手なものだった。
私のストーカーにも、手をこまねいていたのはそのせいだ。
それでも、当時からがっしりした身体と力仕事で鍛えた筋肉から振るわれる拳は、かなりの威力があったらしい。
一撃で男をのしてしまった。
「人を殴ったの、初めてだったけど……あれは嫌なものだね。
殴られる方がまだいいかも」
そう言う冬馬さんは、優しい人なのだ。自分の痛みを他人に味あわせたくないのだ。たとえ、変態でも。
「空手とか、習った方がいいかもしれませんよ」
その方が、もっと上手に力をコントロールできるかもしれないと思って、提案してみた。
「そうだね。なんなら一緒に習わない? 君も護身の為に何か身につけていた方がいいかも。
ああ、けど、真白ちゃんは、自分の力を過信して、厄介事に突っ走ってしまうから、俺一人で習いに行くよ。
君のことは俺が守ってあげる」
「……あ、ありがとうございます」
何かひっかかる発言をされたような気がするけど、猫みたいに、頬を擦り寄せられて、くすぐったくって、それどころではない。
「それで、どうなったんですか?」
「うん? 不審者情報がたびたび出ていたこともあって、巡回中の警官がちょうどやって来てね、俺が男を殴ったのを見て……捕まってしまったんだ」
「―――冬馬さんが?」
「そう、俺が」
「ええええええええっ! なんで?ひどい!!」
私が怒ると、なだめるように頭を撫でられた。
「仕方が無いんだよ。警官が来て安心したのと、人を殴った衝撃で、力が抜けちゃってね、男が俺を押しのけて、逃げてしまったんだ。
それで、警官には俺が男と喧嘩して殴った事実しか把握出来なかったんだ。俺、こんな顔だし」
冬馬さんは自分が極悪人みたいな顔をしていると思っているけど、そんなことはないと思う。
凛々しくて、精悍で、男らしい素敵な顔なのに。
そう伝えると、やっぱり、くすくすと笑われた。
「私は本気で言っているんですよ!」
「分かっているよ。ありがとう。
俺はこの顔、好きじゃなかったけど……父親に似ているんだ……でも、君が俺のことを好きになった理由の一つなら、この顔に生まれて良かったと、今は思うよ。
ちなみに、俺も真白ちゃんの顔、大好きだよ。可愛いね、俺の妖精さん」
すっと、後ろから顔を撫でられた。
「顔だけ?」
「まさか! ……身体もすごく俺好みだよ」
顔を撫でていた手が、あっという間にパジャマの中に侵入してきた。
またふざけて、私をからかっているんだと思うと、悔しくなって、甘い声が漏れそうになるのを押しとどめて、努めて、厳しい声を出した。
「冬馬さん!」
「勿論、性格も……って言うか、君の全部が大好きだよ」
お詫びとしてか、嬉しい言葉をかけられたけど、悪戯な手を追い出して、続きを催促する。
「どこまで話したっけ?
そうそう、警察署に連れていかれて、親に連絡されそうになって、俺は必死に事情を説明したんだけど、殴ったのは事実だし、結構、すごい音がしたから、相手が怪我しているんじゃないかと心配になっていたら、なんと、さっき逃げたはずの牧田が、襲われた女子生徒を連れてやって来たんだ。
あいつ、俺が犯人に逃げられて、警官に連れて行かれるのを見て、これは大変だ、と、男を追いかけ、なお且つ、その場から逃げていた女子生徒を探し出して、証言しに来てくれたんだ。
おかげで、やっと刑事さんも信じてくれて、助かったよ。
変態男も女子生徒の証言と、牧田が犯人が乗って行った車のナンバーを覚えていたお陰で捕まったしね」
「さすが、牧田秘書ですね」
高校生ながら冷静な判断に、私は感心したけど、冬馬さんはぼやいた。
「そうかぁ? 捕まった時点で、弁護して欲しかったよ」
そうは言いつつ、それ以来、仲良くなった上に、今では専属の秘書として、ずっと一緒に働いているのだ、その信頼感は、その時から培われたものだろう。
「おまけに、あいつのひどいところはね、真白ちゃん?」
また、からかうように、私に囁く。
「その事件の後、その女子生徒と付き合うことに成功したんだよ。
俺だって、恩人の一人なのに、抜け駆けだと思わない?」
「ふーん」
冷たい声が出た。
私は嫉妬深いのだ。
「怒ってるの? 可愛い真白ちゃん」
耳朶を舐められたけど、頑張って無反応で、邪険に押しやった。
「さぞかし可愛い子だったんでしょうね」
「そうだね。君も会ったことあるよ。
ほら、牧田のお嫁さんの小巻ちゃん」
「ええええっ! あの人ですか!?」
驚いて振り向いたら、冬馬さんの顔が近くにあって、慌てて、正面に向き直る。
「そうあの子」
私と冬馬さんの婚約が内定してほどなく、牧田さんは長く同棲していた恋人と結婚した。
とても素敵な牧田さんには、彼女がいるとも知らずに憧れていた女性社員も多かったので、その発表は電撃的で、衝撃的だった。
発表された日の午後、小野寺グループの多くの女性社員が早退したとか、しなかったとか……いう伝説を作ったほどだ。
結婚式にも披露宴にも呼ばれたけど、詳しい馴れ初めを聞いたことがなかったので、私が当初、望んでいた話よりも興味深い話となった。
「そんな出会いだったんですね」
学生時代の三人を想像して感慨に浸っていたら、不意に視界が反転した。
冬馬さんが私に覆いかぶさってきて、上から見つめている。
「好奇心は満足した?」
「はい。よく眠れそうです」
「本当に?」
今度は私が疑われた。不思議に思って、「本当ですよ」と言ったのだけど、冬馬さんは懐疑的だ。
「そうかな。ねぇ、真白ちゃん。
軽く汗を掻くような運動をしたら、もっとよく眠れると思わない?」
言外に含まれる意味を、私は知らない振りは出来なかった。
「駄目ですよ。冬馬さん、疲れているのに。明日も仕事なんですよ。起きられなくなっちゃいますよ」
妻として、旦那さまの体調管理は大事だ。
私と結婚したから冬馬さんが駄目になったなんて思われたくない。
「平気だよ。大体、起きられないのは真白ちゃんの方で、俺がいつも起こしてあげている方じゃないか。説得力ないよ。
―――ねぇ、そんなに嫌?」
そう言われれば、その通り。
この人、『モデル喰い』と呼ばれていた頃でも、早朝から会社に来て仕事をしていた。
私がすぐに噂の『若社長』だと気付けなかったのもそのせいだ。
夜遊びする人は、朝は苦手なもの、という先入観があった。
でも、冬馬さんは違ったようだ。
体力あるなぁ、と思う。本音を言うと、その体力に付き合うのは大変だ。
せめて、明日が休日だったら……ううん、さっきから散々焦らされて、私だって、このまま寝る気持ちにはもうなれなかったけど、でも―――。
問いかけに、答えたくないので黙っていたら、冬馬さんは黙って、離れて行った。
先ほどまで感じていた温もりと、程よい重さが無くなって、途端に寒くて寂しくなった。
「ごめんね、そんなに嫌だとは思わなかったんだ。無理強いはしないよ」
背を向けている冬馬さんの意図だって、私はもう分かっているのだ。
でも、だからって、言えることと言えないことがある。
「冬馬さんの意地悪!」
背中を強めに叩いてから、そっと頬を寄せる。
「……はしたない女って、思われたくないの」
「思ったりしないよ。恥じらう君も可愛いけど、あの積極的な君もそろそろ見たいなぁと思うのは我儘?」
思い出すと恥ずかしさで顔から火が出そう。
よく知りもしなかったとは言え、よくああも男の人を煽ったものだ。
こうなってみると、自分からねだるなんて、とても恥ずかしいことだと感じる。
だけど、いつまでもこのままでは、冬馬さんも最初は好ましいと思っても、段々、面倒で飽きてくるようになるかしら?
それでも黙っていると、背中に添えた手を肩越しに掴まれる。
「嫌ではないよね? 俺で満足してくれている?」
「分かりません。だって、私、冬馬さんしか知らないんですよ? あなたこそ、私で満足していますか? こんなお子さまと結婚したこと、後悔していませんか?」
弱気になって聞いてみると、冬馬さんは向き直って、私の両手を握ってくれた。
「そんな風に、自分を責めないで。
意地悪なことをしてごめん。許してくれる?」
その愁傷な申し出に私が小さく頷くと、「じゃあ、仲直り……しよう?」と、改めて覆いかぶさってきた。
これで明日も寝坊しちゃう。朝ご飯、どうしようかな。お弁当も作ってあげたいのに、明日も無理そう。
「何を考えているの? こういう時は、俺以外のことは考えないで、俺だけ感じていて」
「朝ご飯……」
「えっ?」
色気の無い心配ごとを告げると、冬馬さんは微笑んだ。
「俺が作ってあげるから心配しないで。お弁当は真白ちゃんの大好きな唐揚げを入れてあげるからね。
明日は大学、二限目からだろう?ゆっくり寝ているといいよ」
「それが納得出来ないんです! 私、あなたの奥さんなのに! 冬馬さんお仕事忙しいのに!」
「構わないよ。
俺は君を甘やかすの、大好きなんだから、これも我儘と思って、受け入れて」
そうだとしても甘やかしすぎだ。
ひどい時は、ベッドまで朝食を運ばれて、食べさせてくれるほどだ。
しかも、コーヒーは言うまでもなく、普通のご飯も全部美味しい。
嬉しいけど、掃除も洗濯も家政婦さん任せだし、『妻』としてこれでいいのかな、という不安も湧いてくる。
みんなは大学生なんだから、勉強や友達付き合いを優先すべきだと好意的だけど、冬馬さんの役にも立ちたい。
「真白ちゃん、駄目?」
逡巡していると、捨てられた仔熊が現れた。まったく、この顔をされて、しょんぼり言われると、こちらが罪悪感を抱くから不思議だ。
「お弁当は、私が作ります。明日の為に、ハムと胡瓜を買ってきてあるんです。
だから、サンドウィッチを作りますよ。冬馬さんと一緒に作りたいの。ちゃんと起こして下さいね」
妥協案としてそう提案すると、冬馬さんはやれやれ、と苦笑したものの、すぐに同意してくれた。
それから、私の心配事がなくなったと判断したのか、首筋に顔を埋めた。
冬馬さんのぬくもりと重さと石鹸の香りに包まれる。怖い夢は、もう見ないだろう。
でも、今夜はまだ、眠れない。