とある傭兵と月夜の出会い
「あんた、この世界の奴でも明正和次元の奴でもないな……どこの世界のもんだ?」
◇◇◇◇◇◇◇◇
そいつと初めて出会ったのはとある豪商の荷物の護衛という何でもない仕事を終えた俺が行きつけの酒場で飯を食っていた時だった。
この国ではあまり酒を嗜む習慣がないが、最近はこうした酒場をよく見かけるようになってきた。
傭兵として世界各地を巡ってきた俺は他所の国で覚えた酒の味が結構気に入っている。
仕事の割にはたんまり金が入ったのでギルドから特別報奨金を貰った俺はいつもの日替わり定食にちょっとばかり高い酒を付けて酒場の喧騒の中黙々と腹を満たす行為に没頭していた。
酒場とあって酔っ払いの話し声が多少煩いが、飯を食うのに邪魔にはならない。
ふと顔を上げるとグーレラーシャ人の男が恋人を膝の上に抱き上げていちゃこらしていたが、俺はまるっと無視を決め込んだ。
別に羨ましいとかこんな場所で何をやっているんだとか文句があるわけではない。
日頃から見慣れているものも、今宵はただなんとなく見たくなかっただけで特に理由があるわけではない。
俺がそいつを認識したのはメインディッシュの肉もあと一切れになった頃だった。
何者かの視線を感じて辺りの気配を探ったが、客でごった返しざわざわとしている店の中ではその視線を送る何者かを特定することは難しい。
悪意は感じられないが見られているということ自体があまりいい気分ではないので、俺は飯を早々に切り上げることにした。
残りの肉を口の中に押し込み、せっかくの酒がもったいなかったが、よく味わうことなく一気に飲み干すと勘定を済ませて店の外に出る。
そのねっとりとした視線はまだ俺を追っているようだったが、店のドアを締めると視線も途切れてしまった。
何処かにそいつの仲間がいるかもしれないと警戒していたがどうやらその心配もないようだ。
まったく、なんて夜だ。
傭兵という職業柄、他人のゴタゴタに巻き込まれたり身に覚えのない恨みつらみを買ってしまうことなど日常茶飯事であるが、こんなことは初めてだった。
殺意だの悪意だのといったとにかく身の危険を感じる気配ではなく、ただ俺の一挙手一投足を見守るようなまとわりつくようなしつこい視線。
しかし不快かと言われればそうでもなく不思議なものではあったが、面倒ごとには巻き込まれたくはない俺は酒場をもう一度一瞥すると寝ぐらへと帰るために夜の道を歩き出した。
そいつが姿を現したのはその後すぐだ。
俺が何度目かの曲がり角を曲がった時、そいつは突然何の前触れもなく目の前に立っていた。
手練れの傭兵のはずの俺を出し抜くようにひっそりと佇むその姿は女子供のように小さい。
街灯の灯りが逆光になっているためその表情は見えないが、その視線は酒場で感じていたものと同じものだった。
こいつ、できるな。
小さく舌打ちをするとそいつとの間に十分な間合いを取る。
何が目的か知らないが飛び道具なんか使われた日には流石の俺でも危ないので、建物の隙間に滑り込めるよう素早く左右に視線を向けてそいつの一挙手一投足に全神経を傾け、腰に付けた自分の獲物に手をかけて相手の出方を待った。
ジャマダハルと呼ばれる俺の武器は接近戦に特化しているため相手の武器がわからない以上は下手に手は出せない。
これでもファモウラ軍国との戦争で活躍した高等剣士だってのに、情けないぜ。
124歳にもなってこんなところで強敵に出会うとは人生何が起こるかわからないものだ。
俺が腰を低く落とすと、微動だにしなかったそいつが一歩だけ近付いてきた。
何気ない一歩だが、隙がまったくない。
背中を流れる汗にジャマダハルを握る手に力が入る。
そいつがもう一歩足を踏み出す……これ以上はまずい、あと一歩でも近付いたら先手に出るしかない。
しかしそいつも手練れ。
ジリジリとした嫌な時間が過ぎ、俺とそいつの忍耐合戦になるかと思いきや、そいつはあと一歩を踏み出すことなく立ち止まると何を思ったのか俺から視線を外し、空を見上げた。
「月が綺麗ですね」
「は?」
呆気にとられて緊張感のない声が漏れてしまったがそれは仕方がないというものだ。
この状況でいきなり世間話かなにかのように「月が綺麗ですね」なんて言われるなど誰が想像するってんだ。
俺には月を愛でる趣味なんてないが月はいつでも綺麗だし、そんなわかりきったことに何の意味があるのか。
注意を逸らそうという魂胆なら何という陳腐な策略だろう……俺も随分と舐められたものだ。
そいつの仲間でも何処かに潜んでいるのかとハッと気を引き締めたが、相変わらずこの場には俺とそいつの気配しかない。
ちくしょう、この俺を完全に舐めやがって!
この時、こいつのことをふざけた野郎だと思った俺は馬鹿だったと思う。
高等剣士の資格を返上したいくらいに阿呆な思い込みをしていた自分を締め上げたいくらいだ。
「こんばんは、月が綺麗な夜ですね」
ギリリと奥歯を噛み締めた俺に、そいつは再び呑気な口調で世間話をしているかのように口を開いた。
その時、まるで計算されたかのように月光が差してそいつが姿を露わにし、そして俺は雷にでも撃たれたように動けなくなった。
もしもそいつが暗殺者だったとしたら俺の命はその時点でなかっただろう。
とにかく予想外過ぎて呆気にとられてしまった俺の前に立っていたそいつは、にっこりと微笑むともう一度空を見上げる。
女だ。
それも極上の女。
ここいらではあまり見かけない顔立ちの、しかし何処かで見たような女がいる。
紺色の不思議な服に身を包んだ女が俺を見てはにかむ様子をただただ呆然と見つめ、俺は通常ならあり得ない馬鹿な問いかけをした。
「月が綺麗なのはいつもだろうが……それよりあんた、何者だ?」
なんて間抜けな質問だ、殺し屋が殺し屋ですなんて言うもんか!
暗殺者ならば尚更だ。
しかし、その不思議な女は俺の言葉に顔を綻ばせる。
頭を少し傾げてさらさらとした黒髪を夜風になびかせると、その瓊のような夜の瞳を煌めかせて答えた。
「えーっと、警察官? この国には警察ってあるかしら、犯罪者とかを捕まえるような」
ケイサツカンとは聞いたことはないが、犯罪者を捕まえる職業なら警務官が妥当だろう。
そうか、この女は何処かの国から犯罪者を捕まえる為にやって来たのか。
嘘を言っている可能性の方が高いが、その隙のない身のこなしからしても俺たちと近しい人種なことは間違いない。
だが油断は禁物だ。
俺は女の話に合わせながらも警戒を解くことなく、利き手をジャマダハルの持ち手にかけたまま問い返した。
「グーレラーシャにあんたが追っている犯罪者が来てるのか?」
「いいえ? 休暇……というか、ご褒美みたいな感じかしら。仕事に追われてまともな恋愛もできないってアーリィ様に直訴したらこの国に連れて来てくださったのよ」
女は嬉しそうに話すがいまいち信ぴょう性に欠ける説明だ。
何だか落ち着かない。
アーリィ様ってのが誰だかわからないが、一体何故この国に連れて来たのか。
俺はそこまで考えてある可能性に気が付いた。
女に似たような人物を何人か知っている。
そのうちの一人を今日も傭兵ギルドで見かけたばかりだ。
俺は女が傭兵ギルドの管理官長の伴侶だという守護戦士の嬢ちゃんに何処か似ていることに気が付いた。
明正和次元という異世界から来た守護戦士の嬢ちゃんは細っこい身体の癖に大斧を振り回す強者だ。
しかし、この女はそれらしき格好でもなければ守護戦士ではなくケイサツカンだと言っている。
これは、聞いてみるしかないのか。
女の目的も信用できないし、もしかしたら不法入国者かもしれないのでいざとなれば警務官に突き出さなければならない事態になるかもしれない。
「どうやってこの国に? 入国管理センター経由か、それともギルド経由なのか?」
わざわざ情報を与えてやる必要などなかったが、どうせ嘘を吐いてもバレる。
「アーリィ様が『準備はいい? それー!!』って言って、気が付いたらこの国にいましたけど」
「…………」
何だそれは。
聞いたこともないぞ。
俺は緊迫した状況にもかかわらず、思わず空いている方の手で顔を覆った。
女が暗殺者かなんらかの犯罪者である可能性を捨てたわけではないが、それにしても意表を突くというか、突拍子もない話過ぎたのだ。
明正和次元の空間管理師だか空間調整師だかなんだかとかいう奴らなら空間を歪めて人を違う時空に飛ばすくらいはできるらしいが、それならばギルドか王宮が関与しているはずだ。
そもそもアーリィ様って誰だよ。
その名前を聞く度に頭の中に自分がそのアーリィ様とかいう見たこともない奴にひれ伏しているイメージが浮かぶのだが何故なのだろうか。
まったく嫌な予感しかしない。
「あれ? 何かおかしかったですか?」
鈴を転がしたような透き通る声でそんなことを言われると何もおかしいことはないと言いたくなるがそうもいかない。
「あんた、この世界の奴でも明正和次元の奴でもないな……どこの世界のもんだ?」
俺の言葉に女は「あら?」とだけ言うとまた謎めいた笑みを浮かべた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
俺が生まれたグーレラーシャ傭兵国はその名の通り国民のほとんどが傭兵だ。
国家規模で傭兵を育成しているのだから当然と言われればそれまでであるが、農業を経営する者も服飾関係の仕事をする者も飯屋も医師も能力の差はあれど誰もが傭兵として働くために必要な武器を持ち、その能力を身につけている。
王立の傭兵学校まであるのだからその徹底ぶりはたいしたものだ。
俺は本業が傭兵なので王都にある傭兵ギルドに加入しているのだが、最近ここの若い管理官長が伴侶を手に入れた。
伴侶といってもこの国の者ではなく、時空を行き来する明正和次元の住人である守護戦士の女だ。
俺たちグーレラーシャ人の愛は激しいことで有名で、一度伴侶を決めたらほぼ一生添い遂げることがざらである。
時たま別れたりすることもあるが、あまり聞いたことはない。
グーレラーシャの男に生まれた者は惚れ抜いた女を『抱き上げる』ことを目標に日々を生きていると言っても過言ではないだろう。
『抱き上げる』とは言葉通り女を抱き上げて、離さないことだ。
愛しい女をその腕に抱き一生離さない。
止むを得ない場合や嫌がられない限り、腕から降ろさない。
俺だって昔はそんな激しい愛に憧れたこともあったが、100歳を過ぎた頃から仕事が忙しくなってきて未だ独り身だ。
今俺の前で唐揚げにかぶりついている女も仕事が忙しくて独り身なのだという。
結局あれから女の身柄を拘束して傭兵ギルドまで連れてきた俺は、とんでもない厄介ごとを背負うことになってしまった。
俺が比較的丁寧な口調で女に同行を願うと、立場をわきまえているのか女は抵抗することなく俺の言葉に素直に従った。
念の為身体拘束の護符を使ったのだが、女は何故かその護符に興味津々ではしゃいでさえいたので俺があからさまにあきれ返ると「魔法を初めて見たのよ!」と興奮を隠すことなくにこりと笑った。
俺の予想通り、この女……レン・アリシナと名乗る自称ケイサツカンは異世界人であったが、明正和次元から来た者ではなかった。
もちろんこの世界の者ですらないので時空を超えてきたことには間違いないはずだったが、本人はそのことについてはわからないと一点張りだ。
考えるにレンは『ニホン』という国から何らかの力によって飛ばされてらしい。
らしい、というのはレンも俺もそこらへんの事情をよく知らないからだ。
傭兵ギルドのガイウス・ヒフィゼ ギルド管理官長直々に尋問が開始されたが、レンは臆することなく「アーリィ様が私の願いを叶えてくださっただけだから、どんな風にとか何の魔法を使ってだとかはアーリィ様にしかわからないのよ」と素直過ぎるほど素直に答えた。
その願いってやつが「いい男を探しに来た」というのだからふざけているとしか言いようがない。
『蓬髪のガイウス』の二つ名を持つギルド管理官長の気迫をものともしないレンは悪びれもせずに「尋問なら私も得意なの」と笑ってさえいる始末だ。
しかし、レンが『アーリィ様』と口にした瞬間、最愛の妻であるマキナ嬢との甘い時間の邪魔をされて不機嫌さ丸出しの顔で尋問していたギルド管理官長が奇妙な顔になり「本家に確認する」とだけ言い残してこの場を俺に任せて調べ室から出て行き、しばらくして戻って来たと思ったら「大切な客人なので丁重にもてなせ」とご命令された。
何故か俺に。
そんなに大切な客人なら国総出でもてなせよと突っ込みたかったが、大貴族であるヒフィゼ家に逆らうのは得策ではないのでぐっと我慢する。
特別手当てくらいつけて欲しいところだが、要するに拾った者が責任を取れというところなのだろう。
ギルド管理官長から丸投げされた俺はこれからしばらくの間、レン・アリシナという異世界の女をもてなさねばならなくなってしまったというわけだ。
「リューさんは食べないんですか?」
ギルドの食堂はもう開いていなかったので、先ほどの酒場に戻るとデリュスケシの港町で有名な唐揚げという料理を頼んでやった。
どうやら唐揚げは『ニホン』でもよく食されているらしくレンはにこにこしながらお酒で流し込んでいる。
グーレラーシャ人は甘いハチミツ酒を好む傾向にあるが、レンは異国の度数の高い火酒をガバガバと飲んでいた。
「リューさんではない、リュディガーだ」
「ニホン人には難しい発音なんですよ……りゅでがー・はうるしてひさん」
「リュディガー・ファウルシュティヒだ」
「りゅでぃがぁ……はう、ふぁる」
「……いやもうリューでいい」
特別発音しにくい名前だとは思わないが、レンは言いにくそうに噛みっ噛みの発音しかできないようだ。
さらに27歳だと言っていたが、なんともう成人しているのだという。
『ニホン人』は寿命が80年くらいしかないとのことで、少なくとも30歳で成人し、230年は生きる俺たちからすればかなり短命である。
これを聞いた俺は「いい男を探しに来た」というふざけた理由を真面目に説明したレンの気持ちもわかる気がした。
のんびりしていては伴侶を得られないまま人生が終わってしまうのだから、それは必死にもなるというものだ。
「リューさんといいさっきのひーさんといい、この国の男の人っていい身体してますよね。さすがは傭兵の国、ここを選んでよかったわ」
ちなみに『ひーさん』とはガイウス・ヒフィゼ ギルド管理官長のことだ。
恐れ多くも大貴族のヒフィゼ家の坊ちゃんに対してあだ名とは、やはり異世界人なのだなと妙なところで感心してしまった。
「あんた、本当はアーリィ様ってのに何てお願いしたんだよ」
「私好みの男性がたくさんいて、選び放題なところがいいって言いましたよ? うちの会社の男なんて早婚で、仕事を覚えてそれが楽しくなってきた頃には皆結婚しちゃってるんですよね。一般人だと敬遠されるし、仕事は辞めたくないし」
だからといって異世界で相手を探すなどとは普通だったら考えつかんぞ。
俺も人のことを言えた義理じゃないが、もう少し分別ってもんを持っている。
そもそもそのアーリィ様もアーリィ様だ、余計な仕事を増やしやがって。
「だから、探していたんです……前にこの世界を覗いた時に見かけた人のことを」
唐揚げを食べ終えて満腹になり、酒も入ったところで酔いがまわってきたのだろう。
レンの目がトロンとしてきたかと思うと、艶っぽく俺を見つめてきた。
「リューさんは、ひーさんみたいに素敵な女性がいるんですか?」
ギルド管理官長が愛妻であるマキナ嬢を抱き上げた姿を見たレンはとてつもなく羨ましそうだった。
あの夫婦はギルドでも有名なので全てのグーレラーシャ人に当てはまるかと言われればそうとも言い切れないが、蜜月期間のグーレラーシャ人を見た他国の人はたいがい驚く。
酒場でもちらほらと各々の愛しい女性を抱き上げている屈強な傭兵の姿が見られ、それを見るたびに大きな溜め息を吐いていた。
「あのなぁ、グーレラーシャ人の愛ってのは激しいんだぜ? 恋に狂ったグーレラーシャの男ほど危険なもんはねえんだよ。身を焦がすような女がいたらあんたの相手なんか出来ねえって」
「ふふふ……そうですよね」
「なんだよ、嬉しそうに」
「一度でいいから、そんな風に激しい愛に身を任せてみたいものだと思って」
「そ、そうか……まあ、頑張れよ」
このどこか冷めたようなレンにそんな願望があったとは驚きだが、いい男を探して異世界に来るぐらいの気概の持ち主だ。
もしかしたら『ニホン』って国の男どもは淡白なのかもしれない。
火酒の入ったグラスをカラカラと振りながらレンが俺を見上げた。
「ねぇリューさん、グーレラーシャの男性は女性の意見をちゃんと尊重してくれますか?」
「ああ? なんだよいきなり。まあそうだな、好いた女の願いを聞けない奴はいないな。この国は女だって傭兵だし仕事もあるからよ。お互いを尊重出来ねえ奴は信用もねえって言うぜ」
「そうですか。私もこの国に生まれていれば仕事と恋愛が両立できたのかしら……」
くいっと残りの火酒を飲み干し、空のグラスを指で弾くとレンは哀しそうな表情を浮かべてドキッとするような視線を俺に送ってきた。
柄にもなく顔が熱くなるが、レンから目を逸らすことができない。
「貴方に愛される女はきっと幸せでしょうね」
「…………どうだか。俺は仕事に没頭している方が性に合っているんでね。俺を狂わすくらいにいい女がいるなら会ってみたいぜ」
例えば目の前にいる女……レンはいい女だ。
出会って間がないというのにその声は俺の心の琴線を掻き鳴らし、その瞳は俺を惹きつける。
常識的に考えて厄介でしかないはずだというのに、レン・アリシナという女のことを知りたいと思えるくらいには俺はレンに興味がわいていた。
レンがもしこの国の、この世界の女であるならば、俺は……。
いや、だから何だというのだ。
レンの事情がどうであれ俺には関係のないことだ。
根っからの傭兵で、女よりも仕事を選んだ俺にはまったく関係のないことなのだ。
それに国も文化も世界も寿命すらも異なるレンと俺、いや、グーレラーシャ人ではうまくいくはずがない。
「リューさん?」
考え込んでしまった俺に視界に相変わらずトロンとした瞳で見上げているレンが映り込む。
くっ、無防備だ、この女、無防備過ぎる。
「何だよ、眠いなら起きているうちに宿に連れて行くぜ」
「あら、抱き上げてはくれないんですか?」
「ばっ、馬鹿かあんたは! ……大人だろうが、自分の足で歩けよ」
わかって言っているのではないのだろうが、それにしたって計算されたような言い方だ。
商売女ならまだしも、善良なる異世界人のレンを騙すようなことができるはずもない。
しかもギルド管理官長から世話を任されている立場としては情に流されるわけにはいかなかった。
「ケチ。そんなに素敵な筋肉があるのに」
「この素敵な筋肉は戦うためにあるんだよ。ほら行くぞ……あんたと違って俺は明日も早いんだ」
「はいはい、従います。どうもご馳走さまでした」
渋々だが確かな足取りで席を立ち出口に歩いていくレンに俺は盛大な溜め息を吐いた。
どこまでが本気でどこまでが遊びなのかわかりゃしねえ。
それから宿までの道のりはレンは静かだった。
俺の隣を黙って歩き、時々空高く上がった月を見ては物思いにふけるように遠くを見ている。
そういえばレンは月が好きなのだろうか。
初めて聞いた言葉も「月が綺麗ですね」だったことを思い出した俺はあり得ないことを考える。
レンはあの月から来たのだろうか。
『ニホン』とはあの月にある国なのだろうか。
「なあ、あんた、あそこから来たのか?」
俺は月を見上げて試しに聞いてみた。
月には天女だが天使だかが住んでいるという御伽噺を思い出した俺は馬鹿馬鹿しさに首を振る。
レンが天女だとは……あまりに肉感的でむしろ小悪魔にしか見えない。
「まさか! 月は月です。綺麗な月です」
「意味がわからん。そういえばあんた、あの酒場で何していたんだ? 気味悪い視線なんざよこしやがって……暗殺者かと思ったぜ」
「酷いわ。私の熱烈な視線を気味悪いだなんて……良さそうな人を探していただけなの。皆いい身体だったから目移りしちゃって、せめて暗殺者じゃなくて捕食者って言ってくださいません?」
「あのな、自分で言うなよ。それで、あんたのお眼鏡に適う奴はいたのか?」
「ええ、まあ……いましたけど」
何だよ、面白くない。
一体どこのどいつだ?
レンが俺だけを見ていたわけではないと知ってあまりいい気はしない。
しかもちゃっかり目星をつけているようなレンに言いようのないいらつきを覚える。
どうしたんだリュディガー? らしくない、まったくらしくない。
「あんたなぁ……いくらケイサツカンとかいう仕事をしてたって女が一人で酒場なんかに行くもんじゃねえぞ」
「酒場には一人でなんか行ってませんよ? ここに来る前にアーリィ様が少しだけ覗かせてくれたんです。ここに決めたって言ったらあの裏通りに飛ばしてくれました」
アーリィ様の能力に空恐ろしさを感じるが、『ニホン』の高名な術者に違いない。
「俺にはいきなり目の前にあんたが現れたように見えたんだが」
「そうですよ? いきなりあそこに飛ばされたんです」
だからか……。
あの時視線の正体を見破ることができず、突然目の前に立っていたレンの気配に気が付かなかった理由はこれだったのだ。
俺の腕が鈍ったわけではなかったのでよかったのだが、ますますアーリィ様とやらが恐ろしく感じられる。
「あんた、会ったのが俺でよかったな。傭兵には血の気の多い奴やろくでもない奴もうじゃうじゃいるんだ……ましてや酒が入るとろくなことにならねえ。夜中に街をうろつくなよ」
「だっていい人を探すんですもの。ジッとしていても出会いはありませんし……でも私、リューさんに出会えてよかったわ」
そんなに嬉しそうに言うなよ。
レンの屈託のない笑顔に俺は柄にもなく照れそうだったので、気付かれないようにそっぽを向く。
「あんた、いつ帰るんだ?」
「とりあえず明日と明後日と明々後日は仕事が休みですから、明々後日の夜には帰れるはずです……多分」
なんともあやふやだが、俺にはレンの事情に関与できない。
多分アーリィ様とかいう不思議な存在が、来た時と同じようにレンを元の世界に飛ばすのだろうが、不安が残る。
「あんたが自分の世界に帰るまで俺が面倒見てやるよ。どうせギルド管理官長からも命令されてるしな」
俺の言葉にレンが顔をしかめる。
なんだよ、そんなに俺が嫌か。
「うわー……縦社会の弊害がここにも。命令って嫌ですよね、なんだかごめんなさい』
「っ!! い、嫌じゃねえよ。珍しい体験だからな……あんたが『いい人』を見つけられるようにしてやるから安心しな!」
3日間だけだからと俺は腹をくくったが、久々の高揚感に気分はよかった。
ただし、深入りしてはならないと警鐘は鳴り響いている。
レンは異世界の住人だ。
結局は住み慣れた世界の住み慣れた街で相応しい相手を見つけた方が幸せになれると気が付くに違いない。
だから深入りは禁物だ。
レンを知れば知るほど甘い誘惑に絡め取られそうで、やはり自分もグーレラーシャの男なのだと今更ながらに思い知らされる。
だが、しかし……愛する者をこの腕に抱き上げることが出来たならば、どんなに幸せなのだろうか。
いや、駄目だ……それを知ってしまえば手放せなくなってしまう。
目の前を足取りも軽やかに歩いていくレンを見ながら、俺はほころび始めた口元をキュッと引き締める。
独りで生きていくために封印した感情がレンによってあっさりと溢れ出してきそうになりながらも俺は必死にそれに抵抗した。