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「狭間の塔」  作者: 春秋 一五
「三階」
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「病院と信念 Ⅷ」

 目の前に飛び散った、赤い鮮血。それが見えた瞬間、僕は思わず目を閉じた。その勢いで、目から何か液体が流れ落ちる。それが何の液体だったが、僕は自分ではわからない。


 それは命中したらしく、鈍い唸り声が部屋の中に響いた。


 その音が鳴り響くと同時に、もう一つ別の音が部屋の中に反響した。


 ごすっ


 という、鈍器で殴ったような音が。


 そうだ、鈍器と言えば丁度、


 金属バットで、殴ったような音だ。


「え……?」


「よく撃ったぞ、チビ」


 聞こえてきたのは、司の声。その声は、僕の少し後方で聞こえる。


 と、いうことは?


 僕はゆっくりと目を開ける。そこには、少し予想してなかった光景が広がっていた。


「くっ……、何で僕が……」


 血を流してうずくまっているのは、司ではなく時田さんだった。右肩辺りをおさえて、苦悶の表情を浮かべている。


 ……ということは?


 僕が司を撃ち損ねたということは、もしかしたら後ろでは別の戦いが繰り広げられているのではないだろうか。そんな嫌な予感がして、恐る恐る後ろを振り返る。その瞬間に、僕の頭が打ち抜かれることもあり得た。


「お疲れ様でした、司君」


「ホントだよったく」


 ……えーと。


 とりあえず、とりあえず僕が見ている光景をそのまま描写すると、何か和やかだ。司が真ん中に立っていて、その横で卯月さんが腕を組んで立っている。雪姫さんに至っては、司に軽くお辞儀をしていた。


 ただ、


 ただ一つ異常なことは、その傍らに気絶した久慈さんが倒れていることだ。


 なんとなく原因は理解できる。さっきの鈍器のような音は、久慈さんの頭をぶん殴った音なのだろう。そこまではわかる。雪姫さんたちが対応できなかったのも、僕が打ち損ねたことに起因しているのだろうから。


 でも、問題は原因ではない、現状だ。


 何故、今まさに殺そうとした司と、こんなにも仲良く話せているのだろうか。それが僕には理解できなかった。普段なら香苗さんや真綾さんと傍観に徹しているだけの僕だが、引き金を引いてしまったのでそうもいかない。僕も多少の責任感ぐらいは持ち得ているのだ。ここで知らんぷりを決め込むには、その責任は重すぎる。


「あの……司」


 僕はその責任を少しでも軽くするために、自分が先ほどまで殺そうとしていた相手の名前を呼んだ。それはもう勇気のいる行動であったが、やらないことには僕の色々な感情がおさまらないのだ。


「なんだ?」


「…………作戦、通り?」


 具体的に聞くことは憚られたので、少し間を含んだ質問の仕方をしてみた。その質問の意図を掴んだのかはわからないが、司が歯を剥きだしにして笑う。


 それこそまさに、獣と呼ぶにふさわしい笑みだ。


「お前が俺を殺そうとしたところまで、なあ?」


 ……その言葉はなんだか責められているように聞こえる。確かに殺そうとしていたので責められても当然なのだが、それを改めて言われると心苦しい。ただ、僕だってかなり苦しみながら引き金を引いたのだ。何の躊躇もなく引いたのとはわけが違う、という言い訳だけはさせてほしい。


「ごめんなさい愛莉ちゃん、辛いことをさせてしまいましたね」


「何が起きたノー?」


 僕と同じく、全く状況が理解できていないのだろうアリスが駆け寄ってくる。司の「手を出すな」という言いつけをしっかり守っているのだろうか、剣は未だ鞘に収まったままだ。


「ああ、スマホ見てないのか?」


「んー? 見てないヨー?」


「なんのために預けたと思ってんだったく……」


 その様子は、なんだか本当の兄妹のように見えないでもない。ファーストコンタクトがあれだったのに、よくもまあここまで仲が良くなったものだ。司が吹っ切れたこともあるのかもしれないが、アリスもかなり懐いている。二人で行動している間に、何かあったのだろうか。


 司はぼやきながら金属バットを雪姫さんに預け、アリスが持っている自分のスマートフォンを手に取った。画面を起動させ、アリスと僕の中間あたりにかざす。どうやら見に来いという話らしい。それを断る意味も権利もないので、素直に歩み寄り、画面を覗き込む。


『二人とも、黒ですね』


 白い背景に黒文字というシンプルなメッセージが浮かび上がっている画面には、作戦と呼べるものは何一つ書かれていなかった。時田さんも久慈さんも怪しいということは読み取れるのだが、ここからどうやって作戦などというものを読み取れと言うのだろうか。こんな問題が学校のテストで出て来たら平均点零点も夢じゃないだろう。


「作戦なんてものは書いてねーぞ」


「はい、ただの伝言ですから」


 ……僕の解釈は間違えていなかったらしい、なんだろう、少し安心する。


「まあ、でも、それだけで十分だってことだ」


「そうですよ、愛莉ちゃん」


「なあ、チビ。二人怪しい奴がいたとする」


 その言葉だけでどうやってこの現状が作られたか未だにわからない僕のために、司が一つの例をあげた。その合間合間に聞こえてくる久慈さんの呻き声と、時田さんの泣き言がひどくどうでもいい音のように聞こえる。


「俺はその内一人を怪しいと思っている、だが、俺の……、仲間はもう一人を怪しいとしている。それならばどうすればいいと思う?」


「……それは、話し合って、どちらが本当に怪しいか決めるしか」


「そうだ、だから俺たちは話し合った」


 ……なるほど、あれがそうか。


 何の打ち合わせもなく始まった、雪姫さんと司の口論。その中身は時田さんと久慈さんを疑う理由だった。あれにはそういう意図が含まれていたのか。


「そして、二人とも十分に怪しかった」


「それならば答えは簡単だろう?」


 司が言う前に、背後から別の声が続きの言葉を述べた。もうその行動に慣れてしまったので、焦ることなくゆっくりと振り返る。なんだか随分と久しぶりに見るその姿に、あまり喜ばしい感情は覚えなかった。


「どちらも有罪。そうだろう?」


「正解です、零」


 相変わらず演技くさい話し方の零の言葉を、雪姫さんが笑顔で肯定する。それに対して僕の頬は引きつり、頭の中の整理がつかずに言葉を吐き出すことができない。


 ……そんな、強引な判決があって言いものなのか。整理整頓のできない頭にはっきりと浮かんでるのは、そんな常識に基づいた正論だった。「二人とも怪しい、なら二人とも有罪」言っていることは確かに間違いではないが、それは正解でもないだろう。


 それに、お互いが嘘を言っている可能性も十分にあり得た。どちらかの疑いが傾いてしまった場合、どうするつもりだったのか。迷いが生じた瞬間に、今回の作戦はうまくいかない。司の頭に穴があくか、僕の頭が潰れていただろう。


「なんで……、僕達を信じたの?」


 疑問を抑えることができず、口から素直に吐き出す。どちらにせよ零が心を読んで伝えてしまいそうなものだが、自分の言葉で聞きたかった。


「なんでってそりゃ……」


 司が僕をバカにするような表情をする。


 その口からは、鋭い犬歯が覗いていた。


   ★ ☆ ★ ☆ ★


「俺たちが、仲間だからだろ?」


 少しの間悩んだ結果、俺が下した答えはそれだった。雪姫が「話し合い」を始めた時点で、俺はその答えを決めていたのだ。


 俺のことも考えて「話し合い」を始めた雪姫、そうしている時点であいつらは俺のことを仲間と信じていたのだろう。だから俺も信じた、ただそれだけのことだ。


 仲間というものは簡単になれる、互いに命を預けている状態なら尚更だ。


 ……そうだろ、刀祢。


 少し前に俺のことを「仲間」だと言ったやつのことが頭によぎった。


 あいつは俺のことを「仲間」とした。


 俺はあいつのことを「仲間」とはしなかった。


 あの時、俺があいつのことを受け入れていれば、あいつは死ぬこともなかったし、俺もここにはいなかったのだろう。


 ……後悔をするつもりもないし、反省なんかくそくらえだ。


 人を蹴り落としてでも、欲しい物を手に入れる。


 それが俺の信念だ。


 だから、欲しい物を手に入れる手助けをしてくれるやつら。


 そいつらのことを俺は「仲間」と呼ぼう。


 なあ、そうだろ?


「まあ、お前は俺を信じてなかったみたいだがな?」


 くだらない昔話を忘れるために、チビで遊ぶことにする。それを言われたチビは露骨に嫌そうな顔をして、握ったままの銃をいそいそと片付け始める。さすがに雪姫が銃で行動を起こすとは思わなかったが、なんとか避けることができて良かったと思っている。片腕を失っているために、体のバランスが少しずれていたことが幸いしたのだろう。重い右側に思いっきり傾いて、そのまま間を与えずにフードの男を殴るのは至難の業だったが、さすが刀祢の体、超人的な運動神経がそれを可能にした。


 まあ、俺の生きるための本能も少しは働いたと思うが。


「そう言わないで上げてください司君。愛莉ちゃんだって無理をして撃ったんですから」


「わかってらー」


 チビに向かって走った時、その目元に光る何かを見た。その瞬間にチビの覚悟が見て取れたのだ。こいつも自分の体を守るべきか、俺を傷つけないべきか、その狭間で彷徨っていたはずだ。気持ちはわからないでもない。俺ももう少し素直なら、その悩みを抱えることになっていただろう。


「ごめんなさい愛莉ちゃん……。もしあの二人が仲間だった場合を考えて、同時に二人を動けないようにする必要があったんです。それに、人質を取られる可能性もあったので、私が久慈さんの隣から離れるわけにはいかなかった。だから遠くからでも撃てる愛莉ちゃんにお任せしたんです。アリスちゃんは大丈夫だと思いますが、こちらには真綾さんと香苗さん、愛莉ちゃんもいらっしゃったので……。わかって、いただけるでしょうか?」


「……理由はわかりましたが、説明、して欲しかったです……」


 チビの体から力が抜けたように、その場に崩れ落ちる。雪姫のフォローのお蔭で、チビのことはもう大丈夫だろう。


 あとは、未だに呻いている二人の男の処理だ。


「立てよ、やぶ医者。肩撃たれたぐらいで何弱音吐いてんだ」


 俺は片手を失ってもこうやって立っているんだぞ。そんな虚しい自慢は胸の中に収める。言ったところで、無い左腕が鈍い痛みを発するだけだ。


「……君は、どちらの味方だい?」


 今までずっと弱音を吐いていた医者が、急に声色を変えて俺に話しかけてきた。肩を抑えたまま立ち上がり、睨み付けてくる。それは、今までずっと能天気を貫いていた医者の様子とはかけ離れている。


「どちらの味方でもねーよ。……まあ、強いて言うなら」


 そこで一度言葉をきる。仲間の、というには妙に照れくさく、そして嘘くさかった。


 だから俺は自分に素直な答えを口にする。


 きっと「仲間」達も同じことを思っているだろうから。


「俺の、味方だな」


「…………何故、僕を信じなかったんだい?」


 俺の言葉を無視したのか、その言葉を加味したのか、医者の発言の間が何を表しているのか分からない。ただ、また新たな質問をされたことは事実なので、答えてやるしかない。元々そのことを話すためにわざわざこいつの話を聞いているのだ。願ったり叶ったりではある。


「信じなかった以前の問題ではあるがな。お前はあの部屋の状況を見て襲われたと言った。あんなに綺麗に並べられた食器を見て、お前は何の疑いもなくそう言ったんだ。もし襲われていたというならお前はゆっくりと食器を盆に収めるか? 俺にはそんな冷静な行動できねーな」


 もっともこんな理由後付けでしかない。少し疑問に思っただけで、それだけでこいつが黒だということは信じることができなかった。まあもっとも、雪姫の言葉を聞いたことが大きな原動力となっているからなんともいえないが、俺にはもう一つ、医者に抱く疑問があった。


 それは、拭いきれない疑念。


「なあ、お前」


 同族としての共感。


「何で、体を盗んだ理由が答えられたんだ?」


 故に、否定でもある。


「…………」


 医者は言葉を発することなく、ただ俯くだけだ。沈黙は正義だとでもいうつもりだろうか、まるで俺の言葉など聞こえていないようにも見える。


「時田、もう一つお前は嘘をついている」


 俺がイライラしながらも医者の様子を静観していると、いつの間にか横にはオタクが立っていた。その表情は楽しげである。


 まあ、俺も同じような顔をしているのだろうが。


「お前、その体自分のものではないな?」


 そう言われた瞬間に、医者の体がぴくりと動く。それは明らかにオタクの言葉に反応しているという証拠だ。自分の挙動を隠すためか、大げさに眼鏡の位置をなおす光景がいやに滑稽に感じる。


「そんな……、君たちは、何を言って……」


 この反応は……、そういうことだろうな。オタクの顔を見ると、同じくこちらを向いていたオタクと目があう。それを確認して、オタクはゆっくりと頷く。


 その表情は、言葉よりも多くのことを語っていた。


 許可する、ってな。


「なるほど、なら」


 なら、思いっきりやらせてもらおう。丁度遠慮し続きで鬱憤が溜まっていたところだし、こいつらに騙されて腹も立っていたところだ。


 体の中の血が騒ぎ、微かに震えているようにさえ感じる。


 だが、これは恐怖などではない。


「確かめるしか、ねーなぁ?」


 これは恐らく、いや、確実に興奮だ。


 この状況を楽しんでいる俺は異常だろうか?


 ゆっくりと医者に歩み寄りながらそんなことを考える。答えは自分が一番よくわかっているはずだ。


「同族なんだろ、やぶ医者ぁ」


 自分の私利私欲のために、人の体を欲するがために、


「見せて見ろよ、お前の信念をよぉぉ?」


 人を、殺す。


「やめろ……、近づくな……」


 それを異常とせずに、何とするか。


「話は本当のお前に聞いてやる……。安心しろぉ、すぐにここに戻ってくるさ。いてーのは一瞬だよ」


「近づくな……やめてくれ! そ、そうだ、と、取引をしよう!」


 振り下ろそうとしていた金属バットを止める。この期に及んで交渉に出ようとしているとは、良い度胸だ。死にたくないという単純な思いがさせたのか、それとも目的を達成するまでは死ねないのか。


 そんなものはどっちでもいい、だが俺はその取引とやらに興味がわいた。


 だから、話ぐらいは聞いてやる。


「言ってみろ、くだらなかったら不成立だ」


「ああ……、君にとっても悪いことでないと保証するよ……。九音!」


「はい、先生」


 医者が名前を呼んだ瞬間に、いつの間にか俺の背後に立っていた白い死神、九音が返事をする。一瞬それに気づかずに対応が遅れたが、どうやらこちらに危害を加えるつもりはないらしく、本当に呼ばれて現れただけらしい。俺の体を避けて、医者の傍らまで歩いて行った。


「彼に……、彼に左腕をつけてやってくれないか? それで彼の気持ちも収まるだろう」


「左腕を、つける……、ああ、そうか、そういうことかよ」


 やっとずっと疑問に思っていたことが解決した。


 人体を奪ったところで、それを一つの人間の形にすることなどできない。いくら技術を磨いても、そんなこと人間にできるはずがないのだ。


 だが、体を奪った犯人は体を奪い続けた。それは、どこかで人を作るという手段を見つけた証拠でもある。


 でも、その方法が俺には想像もできなかった。


 しかし、今その答えが返事をする。


 何だよ、よく考えなくてもそうじゃねーか。


「かしこまりました」


 死神は、神だ。人ではない。


 ならば、人間の常識を当てはめる必要もない。


 九音が白いスマートフォンを取り出し、宙に投げ出す。それは一瞬だけ光を発した後、形を変えて一つの大きな鎌になった。死神らしい、と言ってしまえば通じるだろうか。ナースの格好をしているのが残念ではある。


「失礼いたします」


 九音がそう言った瞬間に、鎌は振り下ろされる。


「っ……、あぁぁあぁぁぁぁあぁぁぁぁぁ!!!」


 それは左腕の関節辺りに突き刺さり、何の抵抗もなく左腕が切り落とされた。断末魔の叫びが部屋の中に響き、キーンと鼓膜を振るわせる。


 一瞬対象を間違えたのではないかと思った。


「こちら、願いの代償となります。では、願いを叶えてさしあげましょう」


 しかし、その疑問は九音の発言によって一瞬で否定される。


 ああ……、死神とはこういうやつだったな。


 九音の手から鎌が消え、その手には再び白いスマートフォンが現れる。それを見届けた後、九音は切り落とした医者の腕を拾い上げ、こちらに歩み寄ってきた。


 その顔には、凍てつくような笑顔が浮かんでいる。


 これには、さすがの俺も何も言うことができなかった。


「これが……、死神、か」


 そう呟いたオタクの声がいやに頭に残る。


 抵抗、するべきなのだろうか。最早これほどまでに力の差を感じると、それすらも無駄であるように思えてくる。


 振り上げられなかった金属バットは床にカツンとあたり、寂しそうな音をたてた。だからといって、ここで金属バットを振りかざしても意味がないことは、アリスの剣がそれを証明している。


「牧田 司さん、左腕をこちらに」


 白い死神が表情一つ変えることなく、手を差し伸べる。俺はそれに対して何も言うことができずに、ただただ茫然と左腕を前に突き出した。長さの足りない左腕は、白い死神のところまで届かない。


「それでは先生の願い、ここに叶えさせていただきますわ」


 白い死神……、九音が俺の左腕の断面と、医者の左腕の断面を重ね合わせる。


 ……それ以外に、特に変わったことはなかった。何をされたという感覚も、何かが起きたという認識も何もない。


 だが、一度瞬きをした、その時には、


 もう、俺の左腕に、医者の左腕がくっついていた。


「なんだよ……、これ」


「左腕、でございますわ」


 そんなこと、言われなくてもわかっている。俺は俺の体に何が起きたのかを聞きたいのだ。


 新しく俺の体につけられた左腕は、まるで最初からそこにくっついていたかのように何の違和感もない。手を握ろうとすれば、手を握るし、開こうとすれば、手が開く。違うはずの肌の色まで全く同じであり、右腕と比べても何の遜色もなかった。


「その程度、何の造作もないことですの」


 九音が不気味な笑みを浮かべながら、俺の顔を覗きこむ。それをとっさに振り払おうとして横にないだのは、ついたばかりの左腕だ。


 何だ、この異様な感覚は。


 少し前までなかったものが、まるでずっと持っていたかのようにそこにある。


 それがどのような感覚か、俺には言い表すことができなかった。


「は、は、ははははは……」


 そんな俺の言葉を代弁するように、乾いた笑い声が部屋に響いた。声の主は不意に失ってしまった左腕をおさえながら、ふらふらと立ち上がる。その表情には、狂気じみた笑みが見て取れた。


「よかったねえ……、は、ははは……」


 医者は、ゆっくりと口を開く。


「これで、完璧な体じゃないか」


 そして、言葉を口にする。


 その言葉は俺の感情の、よくわからなかったものを取り払った。思考が透明になり、自分を思い出す。


 ああ、そうだな。


 すまん、刀祢、忘れていた。


「なあ、アリス」


 俺がお前を殺した、意味を。


「左腕を、もう一度切り落としてくれ」


 俺はお前の体が欲しかったんだ。


「いいノー?」


 後付けの、他人の腕など必要ない。


「ああ、当たり前だろ」


 それなら、隻腕で十分だ。


「わかった、」


 アリスが剣を鞘から抜き、振りかぶる。


「ヨー!」


 そして、それは迷いなく俺の左腕に向かって振り下ろされた。


 痛みはあった。それこそ気絶してしまいそうなほどに。一度切り落とされたばかりなので、その痛みは鮮明に覚えていたし、当時の痛みと比べても遜色ないほどの痛みはあった。


「……」


 しかし、俺の口からは声一つ出てこなかった。感情もほとんど動いていない、いたって平静だ。


 そのことが全てを表しているだろう。


 なら、もういい、な。


 続きを終わらせておかないと。


「なあ、医者ぁ……。いや、時田だったなぁ?」


「なんで、君、それは、君の、ぼ、僕の、久慈さんの……」


「これがどーいう意味か、分かるよなぁ? ほら、言ってみろよ?」


 大量の血が、左腕の断面から流れている。そのせいで頭に血が行き渡らず、視界がちかちかと点滅し始めた。


「どういう、こと、だ?」


「説明はしといてやるよ」


 金属バットを肩に担ぎ、時田の方に歩み寄る。後ずされしようとしたのか、背後の壁に頭を打ち付けた時田はその場に尻餅をついた。


 その顔の歪みは痛みから来るものなのか。


「俺は完璧な体なんてくだらないものは、いらねえんだよ。まして、お前の体なんてなあ?」


 恐怖から来るものなのか。


「と、いうことはどういうことだ?」


「そ、それは、つ、つまり……」


 俺はわかりきった答えを言い放つ。


 最初から、決まっていた答えを。


「交渉、決裂」


 金属バットと、ともに。


「ってことだよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」


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