「病院と信念 Ⅶ」
「……っと、確かこの辺だったはずだ」
僕らの雑談に入ってくることなく今まで黙々と前方を歩き続けていた久慈さんが、一度咳払いをして振り向いた。その表情は明らかに面倒そうであるが、きちんと仕事をこなしてくれるのは脅迫あってのものだろう。さすが脅かすために迫ると書くだけある。意味があっているかどうかは知らない。
久慈さんを案内として歩き出してからしばらくして階段が見つかり、それを降りてまたしばらく歩いて今に至るというわけだ。そこが今までの部屋とどのような違いがあるか説明しろと言われたら無理な話だが、どうやら久慈さんにはわかるらしい。頭はいい人のようだ。
「よく覚えてるわね」
真綾さんが僕と同じことを吐き捨てるように言った。言い方が違えば、こうも印象が違うものである。
「まあな。よく見りゃ部屋の間隔とか照明の間隔とか色々違うんだよ。まあ、要するに雰囲気だ」
……雰囲気でそこまでできるものかな。疑う余地しかないので、僕も周りをぐるりと見渡してみたが、今までの場所と変化があるとは全くもって思えない。あまりにも単調で、気が狂ってしまいそうな光景が広がっている。「この白い壁は趣深いなあ」とか一切思わなかった。雰囲気ってそういう話ではないんだろうけど。
薬品倉庫……、か。先ほど突如決まった行き先に思いをはせる。できればそんな物騒なものではなく、歩きやすい靴とかが欲しいのだけど。密林でかなり歩いたために(一番歩いてないとかいう意見はこちらでは受け付けておりません)、歩きなれないブーツの中の足はもうすでにぼろぼろだ。いくら平坦な廊下と言えど、すでにできた靴擦れや、異常なまでの足の痛みは治るはずも無い。
薬品ならせめて、軟膏でもあって欲しいものだ。
「ほれ、着いたぞ」
僕がブーツに対する不満を吐露している間に目的の場所に着いたようだ。僕らが立ち止った扉は他の扉と違い真っ赤で、そこがただの病室でないことは一目瞭然だった。今まで全く変化のなかった廊下にこれは、あまりに衝撃的である。
そのあまりにも鮮烈な登場の仕方だったからだろうか、誰も扉のノブに手を付けようとしない。しかしずっとそうして扉とにらめっこしても勝てるわけないので、すぐ後ろに雪姫さんを立たせた卯月さんが、そのノブを力強く握り、思いっきり押して開いた。向こう側にすぐ棚があれば、ぶっ壊してしまいそうな勢いである。
「……誰も居ないみたいですね」
「そうだな。時田がいたら探しづらい」
中の安全を確認した卯月さんと雪姫さんが先行して中に入っていく。久慈さんがその後に続いたので、僕らもその後で中に入っていった。その時に真綾さんが「くっさ」と悪態をついたのは言うまでもないだろう。言うまでも、ないのか? 僕が馴れただけな気もする。
「おい、目代。すまんが薬品の説明を頼めるか?」
「え? ああ、いいわよ」
なんでここにメジロがいるのか一瞬戸惑ったが、そういえば香苗さんの苗字だったなと香苗さんの返事が聞こえてから思い出す。普段呼ばない名前で呼ばれると気づかないものだ。僕が愛莉と呼ばれるのも、未だに慣れない節があるし、慣れることもないだろう。
慣れる前に僕が愛莉を名乗る必要がなくなることを願っているから。
「……なにこれ、劇薬ばかりじゃない。全然病院らしくないわね……」
なにやら物騒な会話が聞こえてきたが、それは聞こえていなかったんだと自分に言い聞かせることに徹して、知識もなく力もない組で寂しくおしゃべりに興ずることにした。まあ、僕と真綾さんしかいないわけだけど、今はそれに久慈さんも加わる形となっている。案内と言う命をかけた大仕事をやり終えて、やることがなくなったのだろう。
「マジくさいんですけど……。ねえ、あんたは平気なわけ?」
「僕はそれよりも足が痛くて……。臭いどころじゃないんですよ」
「あんだけ休んどいて何言ってんのよ。ブーツ、普段履かないわけ?」
「はい……。初めてみたいなものですね」
「なによそれ。あんた高校生にもなってブーツも履かなかったの? ある意味凄いわね」
「それはどうも……」
男としては、そこまでおかしい話ではないけど。説明するのが面倒なので、素直に僕は凄いと思っておくことにしよう。うん、そうだ。僕は凄い。
「お前ら同年代か?」
「は? そうなんじゃないの? わかんないわよ」
「ふーん。まあ、生前と体が違ってんだからわかるわけもねえか」
「そうよ。私は同級生の体だから見た目の通りではあるわね。あんたはどうなの?」
「え、僕ですか?」
「あんた以外に誰が聞いてんのよ」
「僕は……」
僕は、愛莉のことを恋人と呼べる資格はあるのだろうか。
いざという時に何もすることのできなかった僕を、愛莉は恋人だと認めてくれるのだろうか。恋人と言うのは互いにそう認識しないと名乗ってはならないものだ。片方だけの感情で恋人と呼んでしまうのは、おこがましいことだろう。
なら、僕は今愛莉の恋人でいられるのだろうか。
「……大切な、大切な幼馴染の体です」
「そ。じゃあ気持ち悪いから敬語止めてくれない? 同い年ぐらいでしょ?」
僕の言葉の真意になど興味がないのだろう。真綾さんが言葉だけを受けとって要件を伝えてきた。勘繰られても困るので、その方が助かる訳だが、あまり考えたくないことを考えたので頭が少しくらくらする。
……というか、司も同じようなこと言ってたな。なんだかんだで似ているのかもしれない、この二人は。すぐに喧嘩するけど、それも似ているからこそのものかもしれない。
「楽しそうですね。何のお話をしてらっしゃるんですか?」
「ああ、生きてる時の体の話をだな……」
久慈さんが雪姫さんの問いに、体を引きながら応えようとした時、不意に扉が開く音が聞こえた。それは決して香苗さんと卯月さんが戸棚を開けた音ではない。
もっと激しく、まるで扉を蹴り飛ばしたような。
それは先ほど卯月さんが扉を開けた時と近しい音だ。
自然とみんなの視線は、先ほど入ってきた扉の方に集う。
そこには、金属バットを持った、
見知った、隻腕の高校生が立っていた。
☆ ★ ☆ ★ ☆
「どーん……、って、チビじゃねえか」
長い間歩いていた鬱憤を晴らすために蹴り飛ばした扉の先には、目を丸くして驚いているチビの姿があった。その近くにはギャルと、見たことないフードつきのパーカーを、
パーカーだと?
「おいチビそいつから離れろ!」
状況を理解した瞬間にそう叫んでいた。金属バットを横に薙ぎ払い、威嚇のために戸棚に打ち当てる。その音に驚いたのか、奥にいたオタクたちが武器を構えながらこちらに走ってきた。その件に関しては問題ないのだが、何故あいつらがフードの男と一緒に居るのか、それが大きな問題になっている。
あいつらと一緒に居るということは、あいつはさして危険な人物でもないということなのか?
それとも、何らかの理由で行動を共にしているだけなのか?
様々な疑問が答えのないまま想像だけで消えてしまう。
俺は……、どうするべきだ。
「何だい? 不審者でもいたのか?」
背中から呑気な声で医者が話しかけてくる。そんなこと聞かれても、見た目だけでいえば割と全員不審者なのだから答えようがない。こいつ自身フードのやつが怪しいと覚えているかどうかも不安である。
「てめぇは……、時田ぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
それまで何が起きたかわからないと言った風に座っていたフードの男が、突然左手にメスのようなものを握って飛び掛かってきた。その口ぶりから考えるに、標的は俺ではないらしい。どうやら後ろに立っている医者に恨みでもあるようだ。ただ、この角度で医者を襲うとなると、俺も何らかの危害を受ける可能性がある。
なら、その前に。
金属バットを振り上げ、迎撃の準備をする。こんな一直線に突っ込んでくるやつぐらい一発で……、
「司くん! 頭ではなく突き飛ばしてください!」
「はぁ!?」
雪姫がいきなり叫んだ言葉に驚きながらも、とりあえず言われたとおりに体を動かす。フードの男が射程圏内に入ってくる前に金属バットを振り下ろして、下から腹の辺りを突き刺すようにバットを押し出した。
フードの男は元に居た場所ぐらいまで吹き飛んで尻餅をついた。いい所にはいったのか、苦しそうに何度も咳き込んでいる。
そんな醜態はどうでもいい。
「何故、俺を止めた?」
「……説明は後でします。危険なので、時田さんから離れてください」
雪姫はナイフを収めることなく、俺に指示を出した。
「お前らこそその男から離れろ……。そいつが犯人だぞ?」
どう見ても医者よりもそっちの方が不審者だろう。それにこの男は今まさに医者を襲おうとした。医者には一応ここまで案内してもらった分の借りがある。ここで離れて、みすみす殺されるのを見届けるわけにはいかない。
ただ、あいつらは時田から離れろという。そこには恐らく理由があるのだろう。
……だから俺にどうしろってんだよ。さっきから。
「ネーネー」
「……あ?」
「左利きダヨー?」
「わかってらぁ……。ただどうしようもねえだろ」
こんなおかしな状況なんだからよ。不安げな顔で俺の袖を引くアリスは何を考えているのだろうか。俺とアリスの二人でかかれば、あの男一人ぐらいなんとでもなるだろう。しかしオタクは着いているなら話は違う。もし、本当にあの男が犯人ではなくこの階の鍵を握る人物だった場合、その争いになることは避けられないだろう。
そんな無益なことはしたくない……、が、このまま冷戦を続けるわけにもいかない。
「……異常なまでに面倒だな」
「……犯人は時田さんです」
雪姫の発言は、俺の発言とは全くもって逆である。だからこういうことを面倒だと言っているんだ俺は。何故医者が犯人なことがあるのか、道案内をしてもらっただけの俺からしては理解ができない。確かに医者が信頼にあたる人物かどうか、本当のことを言ってしまえばそれすらも分からないが、俺にとってはフードの男よりマシだ。得体の知れない、それに目撃証言もある男のことなど、信じることなんて到底できない。
俺だって何か行動しなければ、先に進むことも前に戻ることもできない。ただただ、立ち止まって無駄に時間をすごすわけにはいかないのだ。そう思って、刀祢の体になったとしても変わらなかった無い頭を回転させて、この場の切り抜け方を考える。考えつくくらいなら、とっくに雪姫あたりが気付いているだろうけど。
金属バットを下ろすことなく、今までの出来事を振り返ってまとめてみる。こんなややこしい状況になった時だからこそ、自分の気持ちもつられてしまってはいけない。
一つは医者を信じて、オタクと戦ってでもフードの男を仕留めること。
次にオタクたちを信じて、医者が襲われるのを静観すること。
そして最後に、二人とも仕留める、もしくは見逃すという選択肢だ。
見逃すというのはまずありえないだろう。それは俺の立場でも、オタクの立場でもそうだろう。だからあいつはこちらに鉄パイプを向けているし、フードの男から離れる様子もない。
「な、仲間割れは駄目だヨー?」
この状況に戸惑いを隠せない様子のアリスが、剣を構えることも忘れて俺の袖を引いてくる。俺だってどうすればいいのかわからない状況なのだ。そんなこと言われても思考が揺らぐだけで、アリスを安心させてやることができない。
……しかし、
仲間ねえ。
少し前にもそのことについて悩んだ気がする。そんな中でこんなことが起きるもんだから、余計にどう動くべきかが決められない。あいつらが、仲間じゃないとするならばこの状況は至極簡単に解決する。だが、心のどこかであいつらを信用する気持ちがあるから、握った金属バットを振り下ろすことができないでいるのだ。あの時そのことを考えなければ、もうすでにフードの男の頭はへこむ羽目になっていただろうに。
「私たちは……、時田さんに毒を盛られました。だから見過ごすわけにはいかないんです」
「毒……? おい、どういうことだよ?」
「……僕にはわからないね」
悩んでいる俺に唐突に雪姫がそう投げかけてきた。確かにそれが本当なら、医者を疑うのも当然というものだが、本人が知らない様子なのだから如何ともしがたい。
……ん? 待てよ。
毒を、盛った?
「……なるほどな」
ある一つの結論に至って、俺は口を開く。
この狭間の塔での仲間と、生き残るために。
俺は、自分を信じる。
★ ☆ ★ ☆ ★
「そんなこと知らねーが、犯人は左利きなんだよ」
雪姫さんの言葉を一蹴した司が、金属バットを久慈さんの方に向けてそう言い放った。指された久慈さんの左手にはメスが握られていて、恐らく久慈さんが左利きであることが予測される。だが、左利きなんてこの病院に腐るほどいると思うのだが、司は何を思って久慈さんを犯人であるとしているのだろう。
「何故犯人が左利きだと分かったんですか?」
表情一つ変えずに雪姫さんが問う。その質問に、司は言葉ではなく物で応えてきた。金属バットを一度床において、制服のポケットから取り出した小さい紙切れを丸めてからこちらに放ってくる。それは誰にも受け取られずに、雪姫さんの足元まで転がって行った。
「……なるほど」
それを拾い上げたのは雪姫さんではなく卯月さんで、雪姫さんはナイフを持ったまま司と睨みあっている。どちらかが動けば、どちらかが血を流すことになるだろう。
そんなこと、僕は望んでいないけど。
「時田は右利きか?」
「そうだよ。それが何か関係あるのかな?」
時田さんは時田さんでマイペースを貫いている。自分が命を狙われていることに気付いているのかさえも定かではない。
戦闘組に任せている僕らも時田さんのことを言えたものではないが、いつものことなのでどうしようもない。
……というわけにもいかないよなあ。
ポケットの中に潜ませているモノに手を伸ばす。いざとなれば、またこれの引き金を引くしかない。
……例えその相手が、司になろうとも、だ。
「それになあ、フードの男が体をとってったって証言もあんだよ。事実は曲げられねーぞ」
「……そうですか。なら交渉は決裂ですね」
雪姫さんが何かを司の方に放った。それを手で受け止めることのできない司は、胸で一度速度を抑えてからそれを腿で受け止めた。サッカーでもやってたのかな、動きに慣れが見て取れる。
「……なるほど、もう仲間じゃないってことか」
「ええ、それはお返しします」
司の腿に落ちたのは、雪姫さんが預かっていたらしい司のスマートフォン。もうこれは私たちが預かるべきはない、そういう意味なのだろうか。
そうだとしたら、それはあまりにも非情だ。
だが、ここに来た時からそれは当たり前なのかもしれない。
なら、覚悟を決めないといけない。
「……愛莉ちゃん、銃を構えてください」
「わかってます……」
ポケットから銃を取り出して、司に向けて構える。司も携帯をアリスに渡して、金属バットを一度横にないだ。
「アリス、お前は手を出すな。俺一人で十分だ」
「あ……、う、でも……」
「大丈夫だ。俺は獣なんだろ?」
珍しく不安げな顔をしたアリスを、司がよくわからない言葉でなだめている。それが効いたのか、アリスは落ち込んだように下を向いた。剣は鞘に収まったままで、抜く様子はない。
「私の合図で引き金を引いてください、それでこの問題は解決します」
「なんだったら俺が撃つ。いけるか?」
「……いきます」
いけるかどうか、そう聞かれたら答えはわかりきっている。
だが、これは僕がやるべき、僕がやるしかないことだ。
「いくぞ、チビィィィィィィぃぃぃぃぃ!」
司がこちらに向かって駆け寄ってくる。距離はそう遠くない。これ以上悩んでいたら取り返しのつかないことになるだろう。
僕は、それに向かって引き金を引けばいい。僕は愛莉にこの体を届けなければならないのだ。
それは最初からわかっていたことだ。この体を守るためだったらなんでもする。それは司が言っていたことだし、僕自身分かっていたことだ。
なら、
なら、
なんで、
引き金を引く手が、こんなに震えているんだろう。
「うぉりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
司が金属バットを振りかざす。
突然僕の手に預けられた、二つの命。
まさに、やるか、やられるか。
「愛莉ちゃん!」
「愛莉!」
わかってる。
わかってるわかってるわかってるわかってるわかってる!
わかってやるさ。
「あああああああああぁぁぁぁああぁぁぁぁぁあああ!!!」
僕は、ゆっくりと、
ただ、しっかりと、
引き金を引いた。
一つの銃声が部屋の中に響き、
そして、
真っ赤な鮮血が、宙を舞った。