「密林と満月 Ⅲ」
「……どういうこと?」
「いや……、昔は若かったなーって」
隆良が不意にもらした言葉を言及すると、自嘲めいた言葉が返ってきた。そんなことを言う年でもないだろうに。親である自分へのあてつけなのかと思ったが、さすがにそんなことを言うために返ってきたのではないだろうと、次の言葉を待った。
「親父の言ってることが気に食わなくて、高校でてすぐに家を出た」
私が話を待っているのに気付いたのか、隆良は遠い昔を見ているかのような表情でそう語りだした。年をとった私には、それは昨日の出来事かのように思われるが、若い隆良には、すでに遠い昔に過ぎ去っていった過去なのだろう。
「だけど……いやー、一人になって気付いたよな」
そこで隆良は一息空けて、コーヒーを口にした。その動作は、夫のそれによく似ている。あぁ、血のつながった親子なんだな、なんて当たり前のことを不意に実感させられる。留美もその面影を感じ取ったのか、少し唖然とした顔で自分の兄の顔をのぞいていた。
「親父の言ってたこと、全部が間違ってたんじゃないってー、な」
そう言いながら、隆良は自嘲気味に笑った。昔自分が現実主義な夫に言われて反発してきた言葉を思い返してきているのだろう。そして、その現実という厳しい波にもまれたことによって悟ったことも。
「……あんた、大人になったわね」
「誰だってこーなるもんさ」
私が言った素直な感想に、隆良は先ほどと変わらない自嘲めいた表情でそんな言葉を返してきた。数年前、最後に見た無邪気な、自分のことだけで精一杯だった時の表情とは、違う。私の知らない隆良の顔だ。
「でも……隆良。あなただけがお父さんに謝ることはないのよ」
「……え?」
突然私が放った言葉に、隆良は目を丸くする。この話を何度も愚痴として昔から聞かされている留美は、苦笑いを浮かべた。
これがうちの家族の、形なのか、とふと思う。
いつだって、一人が欠けている。
一人も欠けていない時の私たちは、どこか不安定で、ぐらついている。
でも、一人欠けることによって私たちは笑い合って、会話をすることができた。
ならば、夫は、
昔から仕事ばかりだった夫は、
「お父さんだって、悪いんだから」
隆良のこんな表情を、見たことがあるのだろうか。
真剣に、向き合ったことがあったのだろうか。
自分の経験ばかりを並べて、自分の誇りと名前だけのために子供を突き放し、見放したあなたは、
この子の本当を、知っていたのだろうか。
「……おふくろ?」
「……私は、許せない」
夫の死自体は、悲しい。許されるなら、それはもう涙が枯れ果てるぐらい泣いてしまいたい。
しかし、それと同時に、同じくらいの怒りが心の中を満たしている。同じ家に住みながら、娘と少しも顔を合わせない、夫に。息子の意見を全く見つめなかった、あなたに。
私は怒っているのよ。
「今からでも、遅くないわ」
だから、あなたは、生き返りなさい。無茶だと分かっているけど、自分でも何を言っているかわからないけど、それでも私は、このままじゃあなたを許せないから。
私を、代わりに殺したとしても。
隆良と、
留美と、
私たちの、愛するべき子供たち、
と。
☆ ★ ☆ ★ ☆
ブーツを作った人を、僕は心底憎む。
それはもう、とてつもなく憎んでやる。
「何匹いるのよ……、あいつらは」
真綾さんの悪態が、近くで聞こえてきた。激しく息が切れている中で、よく話す余裕があるな、と少し感心してしまう。僕の頭の中は先ほどから、痛みとブーツへの怒りで埋め尽くされているというのに。
ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ
また、獣の叫び声が聞こえた。振り返るのも億劫だが、視界に入れないのは危険が多すぎる。なので激しく抗議の声、もとい痛みを高らかにあげる首を無理やり後ろへと向けた。
「アイリ、危ないヨー?」
ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ
「ひっ……!」
僕の眼前一メートルよりも近い距離まで近寄ってきていた獣の首が、アリスの一閃によって切り落とされる。激しい鮮血の血しぶきが辺りの草むらを染めて、健康的な色を一瞬で猟奇的な雰囲気に覆した。さっきからどれだけの植物をそうやって染め上げてきただろうか。数えたくもないし、思い返したくもないが鮮明に思い返されるそれは、とても生々しい。鮮烈な映像を見てしまった人間は、その記憶を写真のように思い返すことができる、というか、思い返されることが強いられるというが、こういうことなのだろう。まさか実感する日が来るとは思わなかったが。
あぁ、でも。僕はもっと前に、実感したはずだ。
愛莉が、死んだときの映像も、
あ、
まず、い。
頭の中で激しく光が瞬いて、目の前でカメラのフラッシュでもたかれたのかとわけのわからない錯覚が襲ってくる。一瞬で僕の目の前からは森林が消えて、そこにはあの時の景色が広がっていた。森林は住宅に変わり、地面はアスファルトに変質する。
そう、それ、
は、
あの時、の、
あの、
あ、
の。
愛莉が、
し、んだ、
と、き
の?
ねぇ、優君。
「おい、チビ大丈夫か!?」
何で、タスケテクレナカッタノ?
司の声が聞こえる愛莉の声が聞こえるトラックの声が獣の叫びが僕の音が
あぁ
何も、
何も、聞こえない。
聞こえない音が、聞こえる。
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
○ ● ○ ● ○
「……ん」
激しい頭の痛みで目が覚めた。体中が痛い。どうやら僕はどこかに寝かされているようだが、その状態から起き上がることさえも億劫だ。硬質な地面が早く立つように僕を急かしてくるが、何もわからないふりをして、それを一蹴した。
「……えぇ、そうなの。何が原因なのか、わかるかしら?」
傍らで諏訪さんが誰かと話している声が聞こえた。どうやら聴覚はまともに働いているようだ。妙にさえる頭に反して、他の感覚は気怠いほどにその機能を低下させている。特に視力は先ほど錯覚した光のせいで、チカチカと点滅して役に立たない。時間が経てば治るかな……、と何の根拠もなしに納得して、不安を飲み下した。
「いった……、ちょっと、包帯ぐらい持ってないの?」
「武器庫で雪姫が見つけたはずだよ?」
真綾さんと零が話す声が聞こえてくる。話の内容からして、真綾さんはどうやら怪我をしているようだ。あぁ、そういえば僕は獣に追われている途中で倒れたんだったな。倒れた、のかな。その記憶さえも定かではない。
確か僕は、あの時のことを思い出して、
何で、タスケテクレナカッタノ?
聞こえないはずの、声を聴いた。
「ねーねー、アイリー?」
アリスがどうやら僕の顔を覗き込んでいるようだ。光の合間に、金髪のツインテールが揺れて見えた。よくもまぁ、こんな状態の僕に話しかけたもんだと逆に尊敬したいほど、間が悪い。僕は今、君を相手にしている心の余裕は
「何で、泣いてるノー?」
……え?
僕は今、泣いているのか?
『愛莉ちゃん、起きたんですか?』
「そうみたいね……、大丈夫? 愛莉ちゃん」
ここにいないはずの雪姫さんの声が聞こえてきた。今度は錯覚ではないのだろう。でも、いや、関係ないけど。
僕は今、泣いているのか? 二回目の自問を心に投げかける。もう抗議をしている右腕を無理やり動かして、頬の辺りを拭ってみた。その瞬間に、腕が熱い液体に触れる。全く持って無意識に流れ続けている涙は、否応なしに腕を濡らしていく。
「あ……え?」
「大丈夫……ではないみたい。自分が泣いていることに気付かない程度には」
『そう、ですか……』
僕のそんな状態を見た諏訪さんが、雪姫さんに電話でそう告げた。雪姫さんはそれを受けて、困ったような声をあげる。あぁ、心配をかけてしまっている……、と申し訳なく感じたが諏訪さんの方を見ることさえかなわない僕には、何もできない。
『恐らく、ですが。愛莉ちゃんは辛い過去を持っているんじゃないでしょうか?』
少しの間をおいて、雪姫さんがそう言った。だが、諏訪さんにそれの答えを返すことはできないし、当の僕は涙を拭うことに必死だし、声を出そうとしても、それはまともな言葉の形にならずに空気に吸い込まれ、溶け込み、消えていく。まるで言葉を理解できない赤子になったような気分だ。
「当たり前さ、雪姫。ここはそんな人たちが集まる場所だよ?」
『そうですよね……。なら愛莉ちゃんはストレスを積み重ねる間に、その辛い記憶がフラッシュバックしたのではないかと思います』
そう、なのかな。雪姫さんの言葉を聞いて、僕はさっき起こった出来事を思い返してみる。確かにそれは、僕が生きてきた、生きていた中で一番辛い記憶の出来事だ。でも、それでこんなにも、体のそこかしこが駄目になってしまうものなのか。
まるで、車にぶつかった時の、
……あぁ、
そういうことか。
『涙が止まらないのは、多分その時の記憶が引き起こしているのではないかと思います。体のどこかに異変があって動けない様子なら、その痛みも恐らく記憶が引き起こしているのだと思いますよ。なので、時間が経てば元に戻るとは思いますが……、そこは安全な場所ですか?』
まさに僕が今解釈した通りの言葉が雪姫さんの口から語られた。僕はその言葉を聞いて、完全に理解する。
あぁ、これは、あの時の。
愛莉の、痛みなんだな。
「えぇ……、木とツタを組み合わせた簡素な家だけど……。誰が作ったのかわからないけど、安全だと思うわ」
……家?
ここは、家の中なのか?
「家……ってよべるものなのかしらね? 完全に小屋よ、小屋。少しの地震でも絶対耐えられないわよ、これ」
諏訪さんの言葉を聞いた真綾さんが、悪態交じりにそう言った。その言葉から、ここがどこか壁に覆われている小屋状の建物の中であること判断した。頼りない視界では、茶色い何かの中にいる。ということしかわからなかった。こんな視界ならない方がましだ、と自嘲気味に笑おうとするが、それさえも不可能だ。
『そうですか。なら、愛莉ちゃんが歩けるようになるまでそこで待機していた方がいいみたいですよ。光弥さんに話したら、そちらと合流するとおっしゃっていましたから、その小屋で待っていただけると分かりやすいと思います。アリスちゃんが目印を付けたんですよね?』
「うん、草むらを切り刻んでるから、道っぽくなってるヨー」
その言葉から、アリスが歩きやすくするためだけのために草を切っていたのではないことに気付く。物騒なものを振り回しているな、とは思ったがそういう意図があってのことだったのか。小さい子供のように見えて、色々と考えてやっているんだな……、と自分の体のことは棚に上げて感心。
『危険かとは思いますが、しばらくお待ちください。こちらも獣が多くて……』
「おーおー、ゆっくりきやがれ。この辺のやつらは俺が全部殺しといたからな」
「私も、デショー?」
「……あぁ、そうだったな」
ずっと黙っていた司の声が、遠くから聞こえてくる。言葉からすると、さっきの獣たちはどうやら全て司とアリスの手によって退治されたようだ。僕が倒れてしまっては、逃げられないと判断してあの場で対峙したのだろうか、と勝手に憶測してみる。恐らく真実も、そうなのだろう。
『では……、またお会いしましょう。どうやら獣に見つかったようですし。この辺りで失礼させていただきます』
「えぇ……、ありがとね雪姫ちゃん。じゃあ」
諏訪さんが電話を切り、小屋の中に一瞬沈黙が訪れる。僕は耳鳴りが酷くてその静けさを感じ取ることはできないが、疲労の色が強くにじみ出ているそれは、とて重苦しい沈黙なのだろう。真綾さんの包帯が欲しいという発言もかなり気になる。それは誰かが怪我をしているということだ。それなのに、僕だけが寝ているわけにはいかない。
僕だけが、過去にとらわれているばかりでは、
「ねぇ、愛莉ちゃん」
僕の思考を、諏訪さんの声が遮る。その声は少し不機嫌そうではあるけども、いつもよりも優しいような、なんというか、母親の声だ。僕には、あまりわからないけれども、恐らくこの厳しさと優しさは、そう表現するのが一番似つかわしいだろう。
「あなた、自分だけが休んじゃいけないーとか思ってんでしょ?」
……いや、全く持ってその通りだけど。言葉も出していない、というか出せない僕の思考をどうやって読み取ったんだこの人は。少し疑問には思ったが、まさにその通りではあるので首を少しだけ縦に動かして、肯定の意を伝えた。
「そんなこと思ってるなら、今すぐ捨てて早く寝なさい。私たちなら、大丈夫だから。ねぇ?」
「おう。あいつら狩るのは確かに体力つかったがな……、まっ、おかげで武器も手に入ったしよ?」
「そういうことよ、愛莉ちゃん。だから自分を責める余裕があったら、早く休んで、早く元に戻りなさい」
「……あ、う」
ろくに返事もできない僕の必死の言葉を聞いて、諏訪さんは「わかればいいの」と本当に解釈できたのかは不安だが満足したらしく、僕の頭を数度撫でてきた。僕は抵抗する力も意欲もないので、黙ってそれを受け入れる形となる。視界が元に戻れば、この人オネェなんだよなぁ……、と少し失礼な想像が浮かんだり沈んだりしたが、それは無視することにした。いくらなんでもこの状況下でそんなことを考えるのは失礼すぎる。
……でも、なんだかなぁ。
少しだけ気楽になったものの、自分のせいで歩みを止めるというのは少し申し訳ないところがある。僕があの場で倒れたせいで、群れから逃げることはできなくなったし、真綾さんも怪我を負った。明らかに僕が悪いのは見えているだろう。
それでも、誰も僕のことを責めない。司ですら。精神の問題、だったから? みんなも、同じようなものを抱えているから?
その理由は、わかんないけど。僕だって、戸惑っているし。
今回のことは、自分でも予想外の出来事だった。愛莉の事故のシーンは、今までに何度も思い返したこともあった。しかしそれでも、こんなに体にも精神にもダメージを負って、涙が止まらなくなって動けなくなるなんてことはなかったのに。
それほど、僕の体が、愛莉の体が弱っていたということなのか。
んー……、じゃあ、お言葉に、甘えようかな。
じゃあ、この狭間の塔に来てから初めての睡眠になるな。いや、二回目か。さっきまで寝てたんだし……。って、そんなことどうでもいいや。
じゃあ、とりあえず。
おやすみなさい。
○ ● ○ ● ○
「……なんか、聞こえないか?」
「え……?」
次に僕が目を覚ましたのは、司の声が原因だった。僕が寝初めて何時間経ったかわからないが、周りの物音があまりしないというところから考えて、みんな寝てしまったのだろうか。司の言葉に反応したのも、僕だけだったし。
「お、チビ。動けるか」
そう司に問われて、自分の体を確かめようとする。……お、目が見えるぞ。久しぶりに正常に映し出された視界には、茶色い木の天井が映し出されていた。何とも感動し難い風景である。
「うん……、さっきよりは、大丈夫」
「そうか。……また聞こえた」
僕の言葉に簡素に反応して、司はまた外の方に耳を向けた。僕もそれにならおうと、まだ痛む体を必死に動かして、司の横まで体を引きずっていく。その間に何度かアリスに引っかかったが、まぁ、それはご愛嬌として。僕の足の上で寝ているアリスが悪いし。
「おい、起きろお前ら。また化物かもしれねぇぞ」
司が小声でそう小屋の中に指示を出した。周りで寝ていた諏訪さんと、真綾さんが体を少し動かしたので、起きたのだろうと推測する。呑気な寝息を立てているアリスと零なんて僕の眼中にはない。アリスなんていまだに僕の足にひっついてるのにね。
「……ほんと、何の音かしら」
僕がアリスをにらんでいる間に、諏訪さんが司の横に並んで外に聞き耳をたてていた。いつの間にかその横にいる司の手には金属バットが握られている。相変わらず血の気が多いというか、危険察知能力が高いというか……。完全に咎めきれないのは、ここが密林だからだ。
「もう少しでこっちにくる、下がってろ」
司がそう危険を促してくるが、その表情は言葉とは裏腹に、牙をむき出しにした獣のような表情だ。どこか楽しんでいるような、喜んでいるような。でもそれは、明らかに僕らにとっては危険を知らせてくるサインなので、おとなしく言葉に従って司の背後に隠れることにした。未だ頭痛は残っているが、それぐらいの運動することは不可能ではない。
「あんた……、いきなり襲い掛からないのよ。オタクたちかもしんないから」
「わかってらー」
「……絶対嘘ね」
真綾さん、僕も同感だ。と視線だけで伝えて、家に取り付けられた扉らしき方を見つめる。目を凝らさないとその様子が見えないのは、辺りが夜になったことを表しているのだろう。この塔にも夜が来るのか……と現実逃避を試みたが、本当に現実とさようならしないといけなくなる可能性が高いので、やめた。素直に観察することにします。
タッ、タッ、タッ
謎の接近物は、少し離れた場所でも足音が聞こえるほど、こちらに近づいてきている。足音を聞くからして二足歩行の生物であることは確かだが、それが人間だとは限らない。ましてや、足の音なのかもどうかもわからないのだ。
常識が通じないのが、この塔の常識。
自分の知識だけを頼りにしてはいけないと、すでに僕は理解している。
「……くる」
司が小さく呟いて、金属バットをいつでも振り下ろせるように頭の高さまで上げた。それとほぼ同時ぐらいのタイミングで、小屋の扉が揺れ動く。
そして、それから少しだけ間があり。
小屋の扉は、
ゆっくりと、開いた。