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「狭間の塔」  作者: 春秋 一五
「二階」
10/26

「密林と満月 Ⅱ」

 

 夫が死んだ。


 その事実だけが頭の中で濁流となって渦巻き続ける。決して清流だとは言えないそれは、飲み込むことができず喉に引っかかって、飲み下せない。つまりは、理解ができないということだ。


「……お母さん?」


 ボーっと虚空を眺めていた私を心配してか、留美が声をかけてくれる。「あぁ……、ごめんなさい、大丈夫よ」と言葉はちゃんと出たものの、気持ちが言葉に全然着いて行かない。底の見えない不安と疲労感に押しつぶされそうだ。鼻孔を満たす線香の煙も、その負の感情たちを助長している。


 あの朝、突然私たちの元にかかった電話は、出張先で夫が急死した旨を伝えるものだった。夫の同僚を名乗った男の声は冷静だったが、あまりに急なことで動揺をしていたらしく、言葉につまったり、震えたりと忙しない様子であった。かく言う私も、それを聞いた瞬間はそんなことを冷静に判断できるほど落ち着いてはいなかったが。


 その後悲嘆にくれる暇もなく、通夜と葬式に追われて、今に至っている。体に押し寄せる疲労感は、そのためであった。悲壮感よりも確実に私の心を圧迫するそれは、こうして食卓の椅子に座っている間にも、私を休めようという配慮を一切見せようとしない。


「何か飲む?」


 そんな私に気を遣ってくれ留美に、少し感動さえ覚えながら弱々しくその言葉に頷いた。


「……俺にも、何かくれないか?」


「……わかった」


 久しぶりのその声に少し戸惑った様子の留美だが、優しく微笑んでキッチンの方へと歩いていく。私はその後ろ姿を見届けて、久しぶりに我が家に響いた声、その主の方に向き直った。


「隆良……、久しぶりね」


「あぁ。生きてたんだな、お袋」


「おにーちゃん、知ってたでしょー。私が連絡してたんだからー」


 キッチンの向こう側から留美の声が飛んでくる。それを聞いた息子であり、留美の兄でもある隆良は、妹の的確な突っ込みに、少し渋い顔を見せた。連絡を取り合っていたというのは知らなかったが、隆良が私たち家族のことを気にかけていてくれたことは、素直に嬉しいと思う。


 隆良は伸ばしているらしい髪の毛を掻き毟りながら、数年ぶりとなる実家を見回して、ため息をついた。私もその様子を見ながら、小さくため息をつく。今日だけで何度ついたかわからないそれは、虚空に吸い込まれ、消えてしまう。それに対して、また虚しくなり、ため息をつきそうになる。これは、きりがない。


「まさか……あんたがお父さんの葬式に来るなんてね……」


「あぁ……俺も、迷ったとこなんだけどな」


 隆良はそこで言葉を気って、天井を見上げた。「どーぞ」と、そんな私と隆良の間に湯気の立つ三つのコーヒーが置かれる。隆良はそのうちのひとつを手に取り、口をつける。


 それは数日前まで、夫の隆弘が使っていたものだ。


「ずーっと……、言い忘れてたんだよ。俺は、親父に……」


 隆良もう一度そこで言葉をきり、コーヒーを口にした。家を出ていくまで、飲めなかったということに、今更気付く。私が見ていない間にも、隆良は成長していたんだな、と、再び関心を覚えてしまった。


「俺は、親父に、謝りたかったんだよ」


   ☆ ★ ☆ ★ ☆


「……ここまで来れば、大丈夫か?」


 息を少し切らした司が、後ろを振り返りながらそう口にしたが、誰もその問いに答は返せない。だれも、それに対する明確な答えを持っていないからだ。かくいう僕も、慣れないブーツと湿った土に悪戦苦闘して、言葉を発することさえも億劫だ。


「うーん……、さっきの鳴き声は聞こえないカナー?」


 呼吸が少しも乱れていないアリスが、耳を澄ませてそう判断する。四方八方を見回しても、同じような草木が立ち並ぶだけのこんな場所で、どう身の安全を判断しろというのだろうか。誰に向けるでもない不満を心の中に燻らせながらも、空腹と疲労によって起こった頭痛で、何もする気が起きない。


「なん……、なのよ。あれは……」


 大きな木に体を寄せている真綾さんが、言葉を途切れさせながらも必死にそう言った。ブーツの僕よりもましだが、真綾さんが履いているローファーも、あまり走ることには向いていない。その表情は、随分辛そうだ。


「わかんないわよ……、そんなこと……」


 滂沱の汗を流す諏訪さんが、地面にへたり込みながら苛立ち混じりにそう答えた。真綾さんはそれに対しこれまた苛立ちを含む瞳で睨みつけたが、何も言わずに下を向く。諏訪さんも革靴を履いているので、走り辛そうだなぁ、と僕たちの走ることへの不向きさを再確認しながら、僕も手近にある木に寄り掛かった。運動しとけよー、愛莉。と、万年帰宅部でエースナンバーを背負っていた僕が何を言っているのかはわからないが、心の中で悪態をつく。


「あれはこの密林に住む、獣さ」


「あ、零ー。来てたんだー?」


 背後から聞こえてきた声に、アリスが嬉しそうに反応する。僕からしたら全く喜びを見いだせないその声は、朗々と説明を始めた。


「見たかどうかは知らないけど、ここに住む獣たちは決して君たちが知っているような姿かたちはしていないよ。もっと獰猛で、人を殺すことに長けている。いわば暗殺者ってやつだね」


 いわばの用法を果てしなく間違っているような気がしないでもないが、誰もそれに突っ込みを入れることなく、黙っている。アリスでさえも、暗殺者という言葉に何も言えない様子だ。


「それと、獣は君たちがさっき見た数匹だけではないさ。膨大な数の獣が、この密林の中に生息している。空を飛ぶものもいれば、水を泳ぐもの、地を走るもの、目に見えないほど小さいもの、踏みつぶされるほど大きいもの、食せるもの、毒をもつもの、色々な獣たちが住んでいるよ」


 零の笑顔が、空に昇っている太陽のように眩しい。こっちは違う意味で目を背けたくなるが。


「……ねぇ、チビガキ」


「もしかして僕のことかな、真中 真綾」


 零の笑顔が、一瞬表面的にも歪みを見せたような気がする。真綾さんもそう感じたらしく、少し身を引きながら言葉を続けた。最初に出会った時から思っていたが、真綾さんと零って合わないと思うんだ。


「その獣って……、私たちが知ってるもの? それとも、現実ではありえないような獣もいるわけ?」


 導入にしては真面目な質問だったので、少し驚きながら、その質問の答えを真綾さんとともに待った。周りの木々たちが風に揺れて、がさがさと激しい音をたてるが、零の応答する声はとても透き通っていて、どこまでも聞こえてしまうような気がする。内緒話には、向いていなさそうな声だ。


「うーん……、不正解かな。後者はおしかったんだけどねー」


 そして零はその場でくるりとまわって見せた。地面が土であることを全く感じさせないなめらかな動きで、零はまたこちらを向いて、止まる。そして、茂みを指さして見せた。


 その茂みは、他の茂みと違い、


「実際に見てみる方が早いさ」


 激しく、左右に揺れている。


「君たちは、もちろんここにいる獣が何かを知っている。でも、誰もここにいる獣を現世で見た人はいないだろうねぇ」


 そして、何かが飛び出してきた。


「ここにいるのは、そう」


 ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ


 人間の叫び声にも似た慟哭をあげながら、その「何か」は司に襲いかかった。


「化物、だからね」


「うっおおぉぉぉ!?」


 不意を突かれて頓狂な声を出しながらも、司は横一線に金属バットを振り抜く。綺麗な軌道を描いたそれは、飛び出してきた「何か」に直撃して、右の茂みに放り込んだ。咄嗟の防御にしては、上出来すぎる結果だ。


 ぎゃ、ぎゃぐぐぐ


 茂みから、苦しそうな声が聞こえてきた。冷静さを取り戻した司とアリスが、その手に武器を構え、そっちの方に体を向ける。疲弊した僕たちを連れていては逃げられないと判断したらしく、ここで仕留める気らしい。僕も膝が大笑いなのでそれには諸手をあげて賛成なのだが、戦力になれないことが非常に申し訳ない。ポケットの中の拳銃がそんな僕を嗤っているかのように少しだけ揺れた。


「ほーらー、よーく見ておくんだよ」


 今度はゆっくりとした動作で、茂みから「何か」が這い出てきた。妙にぎらついた赤色の瞳が、こちらを激しく睨みつける。非常に情熱的な色の瞳で、恋に落ちてしまいそうだった。そんな軽口を叩ける余裕は一ミリもないのだが、そうでもしないとやってられない。


 そんな光景が目の前には広がっているのだ。


「あれが、本物の化け物というやつさ」


 四足歩行で這い出てきたそれは、さっきの司の攻撃で負傷したのか右前脚を引きずっているように見えた。犬の様な顔だちに、真っ赤な目がよく映えている。全身は真っ黒の体毛で覆われており、木々の間から差し込む太陽光を反射し、艶やかだ。それだけの描写だと、司がドーベルマンでも虐待したような字面となってしまうが、ここからが問題なのだ。ここからが、司の正当防衛を認めさせるために必要なことなのだよ。


 犬の様な顔だちをしているが、その口は大きく横に張り裂けており、そこからは大きな歯が覗いている。そして、背中には複数の突起物が生えており、それは金属製の光沢をもっている。ここから判断するのは難しいが、ナイフのような、先端が尖ったもののようだ。それと同じものが、左右前後、四つの足の前後にもついている。それは確かに現世では見たことがない生き物だ。決して、自然界では生まれない、


 そう、例えるなら、


 人を殺すためにつくられたような、化物、だ。


「ちっ……、何だこいつは」


 訝しげな視線を向けながら、司が呟く。僕も何もしないわけにはいかないので、銃をポケットから取り出して、一応手に持っておく。割と距離があるし、あまり大きな対象物ではないので、僕の腕では全く当たる気がしないのだが、まぁ、一応。


「私は……、何もできないわね」


 息が整ってきた真綾さんが、僕の方に歩み寄って釣竿を軽く振りながらそう言った。確かにそれで釣り上げたところでどうするのか、っていう話ではある。百円ライターをもっている諏訪さんも同じようなものだろう。


「あいつらに任せるしか、ないってことね……」


 そう呟く真綾さんは、少し悔しそうな表情をしていた。まだ首を絞められたのを根に持ってるのだろうか。……いやまぁ、根に持ってても仕方ないか、あれは。


「おにーちゃん、足引っ張らないでヨー?」


「あぁ……、お前こそな、門番やろー」


 僕らが蚊帳の外で座り込むことを決意したことは尻目に、アリスと司が化物に向かって、各々の武器を持って走り出した。


 司に殴られてから少しおとなしくなっていた化物は、その様子を見て危険を察したのか、引きずっている右前脚を使わずに茂みの中に飛び込んだ。二人は一瞬だけ視線を交わして、司はそのまま真っ直ぐ茂みの中に直進し、アリスはその場に留まる。なんだ、いやに連携がとれてるなぁ、と他人事を決め込む。だってー、僕じゃ全く役に立てないしー。


「おーら、よぉ!」


 司が金属バットを振り下ろして、先ほどまで化物がいた辺りを攻撃する。しかし聞こえたのは地面を殴る湿った音だけで、それは攻撃が失敗したことを伝えていた。地面を遠慮なく殴ったことによって訪れた手のしびれに顔を歪ませた司であったが、すぐにその表情を綻ばせる。尖った犬歯が、その隙間から覗いた。


「ほーら、これでいーんだろ、アリス!」


「うん、よく頑張ったネー、おにーちゃん?」


 アリスはそう口にすると同時に、足元の高い草むらに剣を突き刺した。一切そちらの方を見ずに、笑顔のまま。二人が一体何がしたいのか、傍観者の僕たちには全くわからない。


 しかし、次に聞こえてきたのは先ほどのような地面の湿った音ではない。


 ぐしゃ


 それは、何かの生物がその切っ先にとらえられていることを伝える音だ。


「何で偉そうなんだよ、お前?」


「深い意味はないヨー?」


「……そうかい。しっかし、これはなんだろーなー?」


 僕たちをおいて行ったまま、二人が勝手に話を進めようとする。待て、ちょっと待て。このままじゃ僕たちも読者もおいて行かれたままだ。それはまずい。完全に二人の自己満足で終わってしまう。それは、非常にまずい。


「ちょっ、あの、どうなったん……ですか?」


 心の中では呼び捨てにしている司ではあるが、いざ話すとなるとその威圧感はなかなかのものだ。よって導き出されたのは敬語である。その僕の葛藤からしばらくして、司が自分に向けられた言葉であることに気付き、億劫そうに返事をした。


「あー……、倒したぜ?」


 ……いや、答になってないけど? 謎は残るが、僕と諏訪さんと真綾さんの傍観者組はその名の通り何もしていないので、言及することはちょっと迷うところだ。そんな僕たちの様子を見かねたのかどうかは知らないが、司がもう一度口を開く。おー、見た目に似合わず優しい所もあるじゃないか。


「あとなー、そこ、やばいかもしんねーぞ?」


「……え?」


 ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ


 先ほどと同じような叫び声が、僕たちのすぐ後ろから聞こえた。


 ……まぁ、戦いが呆気なく終わるとは思わなかったけど、さ、これはないよ。


 前言撤回、やっぱり司全然優しくない。


「もっと早く言いなさいよ!」


 あぁ……、解説どうも真綾さん。


 つまりは、そういうことです。



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