風の重さ
谷を越えてから、風の向きが変わった。
冷たいわけではない。
けれど、肌に触れる空気が少しだけ重い。
夕方が近づいていた。
空は薄く曇り、光が均一に広がっている。
影ができにくい空だった。
騎士は前を歩き続けている。
一定の速度。
迷いのない歩幅。
彼女はその後ろを歩きながら、呼吸が少し浅くなっていることに気づいた。
疲れているわけではない。
足も痛くない。
それなのに、胸の奥に細い圧がある。
風が多すぎる。
そんな感覚だった。
視界に入るものすべてから、流れを感じてしまう。
草の揺れ。
雲の動き。
遠くの木々。
どこが滞り、どこが通っているのかが自然と分かる。
分かりすぎる。
耳鳴りにも似た静けさが、頭の奥に広がる。
誰も話していないのに、世界だけがずっと話しかけてくるようだった。
彼女は歩調を少し落とした。
足音が、自分のものより半拍遅れて聞こえた気がした。
地面がわずかに遠い。
自分の輪郭が、少しだけ薄くなる。
――あ、これ長くなるやつだ。
心の中でそう思い、彼女は小さく息を吐いた。
騎士が気づき、振り返る。
「休むか」
問いというより確認。
彼女は首を横に振る。
「大丈夫」
少し間を置いてから、付け加えた。
「ちょっと世界が多いだけ」
騎士はわずかに眉を動かしたが、意味は聞き返さなかった。
二人は小さな川のそばで足を止めた。
水は澄み、緩やかに流れている。
騎士は火を起こし、湯を温め始める。
無駄のない動きだった。
彼女は川辺に座る。
水面を見る。
流れは素直だ。
ここには滞りがない。
それなのに胸の奥の圧は消えない。
目を閉じる。
風が通る。
一方向ではない。
いくつもの流れが同時に触れてくる。
遠くの土地。
まだ見ぬ場所。
止まりかけた気配。
微かなものまで拾ってしまう。
彼女は顔をしかめ、両手でこめかみを軽く押さえた。
「……ちょっと静かにしてほしいなあ」
誰に言ったわけでもない、小さな独り言だった。
自分でも可笑しくなり、ふっと笑う。
風が止むわけではない。
けれど、その一言で少しだけ自分の位置が戻る。
騎士が湯を差し出す。
「顔色が悪い」
率直な言葉だった。
彼女は受け取り、小さく肩をすくめる。
「大丈夫。壊れてないから」
「壊れるのか」
真顔で返され、彼女は思わず吹き出した。
「たまに」
騎士は冗談か判断できず、黙ったまま火を見つめる。
その不器用さが少し可笑しくて、彼女の呼吸がようやく深くなる。
湯を飲む。
温度が身体の内側に輪郭を作る。
ようやく、自分がここに戻ってくる。
町を出てから、静かな瞬間がなかったことに気づいた。
風を読むことは、特別なことではない。
ただ、閉じている場所に気づいてしまうだけ。
そして気づいた場所は、通るまで残り続ける。
逃げられない。
川の音が続く。
騎士は火を見つめながら言った。
「無理はするな」
短い言葉。
命令ではない。
同行者への配慮だった。
彼女は頷く。
そのあとで、呼吸が少しだけ深くなった。
夜風が静かに通り抜ける。
だが彼女はまだ知らない。
この重さが、これから先、さらに増していくことを。
風が戻る場所へ近づくほどに。




