風の記憶
夜の草原は広かった。
焚き火の火が小さく揺れ、周囲の闇をやわらかく押し返している。
風は絶えず流れていた。
止まらない風。
それだけで、この世界が変わったことが分かる。
彼女は火の向こうで湯を温めていた。
湯気がまっすぐ上へ昇る。
昔なら、夜はもっと重かった。
音が遠く、呼吸さえ慎重になる時間。
だが今は違う。
静かだが、閉じていない夜だった。
騎士は少し離れた場所に座っている。
剣は手元にある。
だが手入れはしていない。
ただ置いているだけ。
それも、以前にはなかったことだった。
長い沈黙のあと、彼が言った。
「……昔」
彼女は顔を上げるが、何も言わない。
続きを待つ。
騎士は火を見つめたまま続けた。
「妹がいた」
短い言葉。
けれど、それだけで十分だった。
風が火を揺らす。
「よく笑うやつだった。風を見るのが好きでな」
少し口元が緩む。
記憶の中の表情。
「影なんて信じていなかった」
間。
「だから守れると思った」
火が小さく弾ける。
彼女は視線を落としたまま聞いている。
助言もしない。
慰めもしない。
ただ、聞く。
騎士の声が低くなる。
「気づいたときには、遅れていた」
止まった時間。
呼びかけても届かない目。
あの夜。
何度も繰り返した記憶。
「祓えば戻ると思った」
手がわずかに握られる。
「斬れば助かると」
風が吹く。
火が揺れる。
だが彼の声は崩れなかった。
「……戻らなかった」
長い沈黙。
以前ならここで言葉は途切れていた。
語れなかった場所。
けれど今は違う。
彼は続けた。
「ずっと思っていた」
ゆっくり息を吐く。
「俺が遅れたんだと」
火の音だけが響く。
彼女は静かに湯を差し出した。
騎士は受け取る。
温かさが手に広がる。
しばらくして、彼は小さく笑った。
「だがな」
夜空を見る。
星がはっきり見える。
「今日、分かった気がする」
声は穏やかだった。
「止まっていたのは、あいつの時間だった」
彼女は何も言わない。
それでいい。
彼が自分で辿り着いた言葉だから。
「俺は、隣に立てなかっただけだ」
責める響きはなかった。
理解に近い声音。
風が強く吹く。
焚き火の煙が流れる。
騎士は続ける。
「……それでも」
少し間。
「今なら、違ったかもしれん」
彼女は小さく頷いた。
否定でも肯定でもなく。
ただ、その可能性を置くように。
騎士は空を見上げる。
妹の記憶が浮かぶ。
だが痛みは以前ほど鋭くない。
消えてはいない。
けれど――
持っていられる。
それが初めてだった。
「忘れなくていいんだな」
独り言のように言う。
彼女が答える。
「うん」
静かな声。
「風みたいなものだから」
騎士は少し笑った。
意味は完全には分からない。
だが、納得できた。
夜風が二人の間を通る。
冷たくない。
遠くで草が揺れる。
騎士は目を閉じた。
失ったものは戻らない。
けれど、消さなくても歩ける。
それを知った夜だった。
焚き火が静かに燃え続ける。
風は止まらない。




