風の向こうへ
町の門は古かった。
石の柱は長い年月に削られ、角が丸くなっている。
何度も人を送り出し、何度も迎えてきた場所。
けれど今日、その門は少し違って見えた。
彼女は立ち止まり、振り返る。
朝の光の中で町が広がっていた。
屋根の並び。
市場の煙。
遠くで聞こえる笑い声。
特別な景色ではない。
だからこそ、胸の奥が静かに満ちる。
「……戻れるね」
無意識に出た言葉だった。
騎士が隣で頷く。
「戻る場所がある者は、遠くへ行ける」
彼自身に言い聞かせるような声。
かつての彼は、戻ることを考えなかった。
祓いは終わらない。
戦いは続く。
だから歩き続けるしかなかった。
だが今は違う。
帰れる場所という感覚が、初めて胸にある。
門の外へ一歩踏み出す。
その瞬間――
空気が変わった。
風の質が違う。
町の中の風は、人の暮らしに沿って流れていた。
外の風は、もっと広い。
方向を持たない。
世界そのものの呼吸のようだった。
彼女は思わず目を細める。
遠くの地平線。
見たことのない土地。
まだ触れていない風。
胸の奥がわずかに高鳴る。
怖さではない。
未知への静かな緊張。
騎士は周囲を見渡す。
癖のように危険を探す。
だが同時に、気づいていた。
以前の自分なら、ここで剣を確かめていた。
今は違う。
手は自然に下がったまま。
必要なときにだけ抜けばいい。
それで十分だと思えている。
二人は並んで歩き始める。
背後で町の鐘が鳴った。
澄んだ音。
一度だけ。
遅れずに響く。
彼女は振り返らなかった。
別れではないと分かっているから。
風が背中を押す。
道は緩やかに続いている。
しばらく歩いたあと、彼女がふと笑った。
「ねえ」
「なんだ」
「旅って、もっと大げさなものかと思ってた」
騎士は少し考え、答える。
「俺もだ」
間。
そして小さく続ける。
「だが、歩き出すだけらしい」
彼女は頷く。
それで十分だった。
遠くの空で雲が流れる。
その影が大地を渡る。
今度は遅れない。
光と影が同じ速さで動く。
世界は完全ではない。
これからも影は生まれる。
誰かが立ち止まる夜もある。
けれど――
戻る道がある。
それを知った世界だった。
風が強く吹いた。
草原が波のように揺れる。
彼女はその音を聞きながら思う。
もう、夜は怖くない。
騎士は隣を歩く。
剣を持ったまま。
だがそれは、戦うためだけのものではなくなっていた。
二人の影が地面に伸びる。
同じ速さで。
同じ方向へ。
風の向こうへ。




