剣を抜かない者
夕暮れはゆっくり町を沈めていった。
空の色が深まり、建物の影が静かに重なっていく。
昼と夜の境目。
かつて最も影が現れやすい時間だった。
騎士は路地の入口に立っていた。
剣は腰にある。
だが手は触れていない。
それだけで、奇妙な感覚だった。
長い年月、この時間帯は戦いの合図だった。
空気の重さ。
呼吸の浅さ。
そして――斬る準備。
だが今日は違う。
彼女は少し離れた場所で、壁にもたれて空を見ている。
警戒していない。
待っている。
その姿が、騎士には不思議だった。
突然、風が止んだ。
町の音が遠ざかる。
路地の奥、暗がりがわずかに歪む。
影が生まれる。
形は曖昧。
人の輪郭のようで、そうではない。
沈んだ気配だけがそこにある。
騎士の体が反射的に動こうとする。
剣へ手が伸びる。
――止まる。
彼は自分で止めた。
胸の奥で、別の記憶が動いたからだ。
今朝の少年。
路地の女。
そして、影の中に立った彼女の姿。
斬らなくても戻った。
初めての経験。
影がゆっくり広がる。
重さが空気を押し下げる。
以前なら、ここで叫び声が上がっていた。
だが今は静かだった。
騎士は一歩踏み出す。
剣を抜かないまま。
影の前に立つ。
冷たい。
胸の奥に沈む感覚。
思考が鈍くなる。
逃げろ、と体が言う。
だが彼は立ち続けた。
「……止まっているだけか」
自分に言い聞かせるように呟く。
影は襲ってこない。
ただそこにある。
深い井戸の底のような静けさ。
騎士の呼吸が乱れる。
その瞬間――
彼の中に、古い夜が蘇った。
閉ざされた部屋。
呼びかけても返事のない時間。
妹の背中。
何度も名を呼んだ記憶。
救えなかったという確信。
胸が締めつけられる。
剣を抜けば、この感覚を切り離せる。
長年そうしてきた。
痛みごと斬り捨てるように。
だが彼は動かなかった。
代わりに、ゆっくり息を吐いた。
逃げない。
消さない。
ただ立つ。
影が揺れる。
濃さがわずかに薄れる。
背後から彼女の声が届く。
「大丈夫?」
振り返らないまま答える。
「……ああ」
少し間を置いて。
「怖いが」
その言葉は、彼自身も驚くほど自然に出た。
怖い。
祓う者が口にしなかった言葉。
彼女は近づかない。
助けない。
ただそこにいる。
それで十分だと知っているから。
風が戻る。
細い流れが影を通り抜ける。
暗さがゆっくりほどける。
形が崩れ、地面へ溶ける。
消えたのではない。
静まった。
騎士は長く息を吐いた。
膝がわずかに震えていることに気づく。
剣に手を置く。
抜かなかった。
それが初めてだった。
彼は振り返る。
彼女が小さく笑っていた。
「できたね」
子どもに言うような言葉。
騎士は苦笑する。
「……戦っていない」
「うん」
「なのに終わった」
彼女は頷いた。
夕暮れの最後の光が消える。
夜が来る。
だが以前の夜とは違った。
騎士は静かに理解し始めていた。
祓うとは、
斬ることではない。
止まったものの隣に立つことなのかもしれない、と。
夜風が二人の間を通り抜けた。
もう、冷たくはなかった。




