選ばれなかった剣
昼の光が町を満たしていた。
だが空気は、まだどこか慎重だった。
世界が新しい歩き方を覚えようとしているような、不安定な静けさ。
彼女と騎士は市場の外れを歩いていた。
朝の出来事から、ほとんど言葉を交わしていない。
必要がなかった。
互いに、同じ変化を感じていたからだ。
騎士の手は無意識に剣の柄へ伸びる。
触れる。
だが、握らない。
その動きを自分で止めていることに、彼自身がまだ慣れていなかった。
「……これまでなら」
低く呟く。
彼女が視線を向ける。
「斬って終わりだった」
風が吹く。
外套が揺れる。
騎士の目は遠くを見ていた。
「迷う時間はなかった。影は広がる。躊躇すれば人が壊れる」
それが世界の常識だった。
祓う者の役目。
疑う余地はなかった。
彼女は少し考え、言った。
「でも今日、壊れなかった」
騎士は答えない。
分かっているからだ。
剣では救えなかった瞬間を、目の前で見た。
斬らなかったから戻った影。
沈黙が続く。
通りの向こうで、洗濯物が風に揺れる。
その影が地面に落ち、少し遅れて揺れた。
まだ完全には揃っていない。
騎士は立ち止まる。
「……なぜだ」
問いだった。
彼女へではない。
世界へ向けた問い。
なぜ祓わずに戻るのか。
なぜ剣が届かないのか。
彼女は答えを探さなかった。
代わりに言った。
「たぶん」
少しだけ笑う。
「選んでるんじゃないかな」
「……何を」
「戻るかどうか」
騎士の眉がわずかに動く。
影が選ぶ。
そんな考えは、これまで存在しなかった。
影は災いだった。
排除するもの。
意思などないもの。
だが――
今朝の少年は違った。
戻ろうとしていた。
ただ、戻り方が分からなかっただけ。
騎士の胸に、古い記憶が浮かぶ。
暗い部屋。
閉ざされた窓。
妹の背中。
呼びかけても振り向かなかった時間。
あのとき。
剣では届かなかった。
彼はゆっくり息を吐く。
「……選ばれなかったのか」
声は小さかった。
誰に聞かせるでもなく。
彼女は否定しなかった。
慰めもしない。
ただ隣に立つ。
それだけだった。
風が二人の間を通る。
柔らかい風。
騎士は剣を抜いた。
突然の動きだった。
刃が光を受ける。
彼はそれをしばらく見つめる。
長く共にあった重さ。
役目。
生き方そのもの。
そして――
ゆっくりと地面へ突き立てた。
戦うためではない。
支えとして。
剣にもたれかかるように立つ。
初めてだった。
剣が「斬るためのもの」でなくなる瞬間。
彼は静かに言った。
「……祓うかどうかも、選択になるのか」
彼女は頷く。
「たぶんね」
市場の鐘が鳴る。
今度は遅れない。
音は一度で届いた。
騎士は空を見上げる。
世界は壊れていない。
むしろ、広がっている。
そして彼は初めて理解し始める。
祓う者とは、
消す者ではなく、
――見届ける者なのかもしれない、と。
風が強く吹いた。
町の旗が同時に揺れる。
影も、遅れずに動いた。




