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夜を知っている者

夕方が近づいていた。


空はまだ明るいのに、町の端だけが早く影を落としている。


光と暗さの境目が、ゆっくり揺れていた。


彼女は坂の途中で足を止めた。


胸の奥が静かにざわめく。


恐怖ではない。


呼ばれている感覚。


騎士も気づいていた。


剣には手をかけない。


ただ周囲を見渡す。


「……来るな」


戦いの予感ではなかった。


沈む気配。


二人は細い路地へ入る。


人通りは少ない。


古い家の壁に夕陽が伸び、影が長く重なっている。


その奥。


小さな戸口の前で、一人の女が座り込んでいた。


動かない。


目は開いている。


だが世界を見ていない。


足元の影だけが、不自然に濃かった。


揺れている。


遅れているのではない。


沈んでいる。


騎士が一歩前に出る。


だが彼女が静かに腕を伸ばし、止めた。


「待って」


声は小さい。


けれど迷いがなかった。


彼女は女の前にしゃがみ込む。


何も聞かない。


名前も理由も。


ただ、同じ高さにいる。


風が止まる。


周囲の音が遠のく。


影がゆっくり広がった。


彼女の足元へ触れる。


冷たい感覚。


暗さが染み込んでくる。


その瞬間――


胸の奥に、古い夜が開いた。


息を潜めていた時間。


物音を立てないように、体を小さくしていた夜。


朝が来るまで、動かないと決めていた自分。


怖かった。


夜が終わらない気がしていた。


声を出せば壊れると思っていた。


彼女の呼吸が浅くなる。


騎士が気づく。


だが動かない。


彼女が自分で立っていることを知っているから。


彼女は目を閉じた。


逃げない。


押し返さない。


ただ、そこにいる。


あの頃できなかったことを、今している。


ゆっくり息を吸う。


吐く。


暗さが胸を通り抜ける。


消えない。


けれど形が変わる。


怖さではなく、


「知っているもの」へ。


彼女は小さく呟いた。


「……夜、長いよね」


女の肩がわずかに震えた。


初めての反応だった。


影が揺れる。


沈んでいた黒が、少しだけ薄くなる。


彼女は続けた。


「でも、朝は来るよ」


慰めではない。


説明でもない。


ただ事実として。


彼女自身が、ようやく信じられるようになった言葉。


風が戻る。


細い流れが路地を通り抜ける。


影が足元へ戻り始める。


女の呼吸が深くなる。


視線がゆっくり焦点を取り戻す。


「あれ……私……」


彼女は微笑んだ。


「ちょっと座ってただけ」


女は戸惑いながら立ち上がり、何度も頭を下げて去っていった。


影は遅れずについていく。


静けさが残る。


騎士がようやく口を開く。


「……お前は」


言葉を探す。


適切な名が見つからない。


術でも、祓いでもない。


彼女は肩をすくめた。


「特別なことしてないよ」


少し考えてから続ける。


「ただ、知ってるだけ」


「何を」


彼女は空を見上げた。


夕暮れが深くなる。


「夜の過ごし方」


騎士は黙った。


胸の奥で何かが静かに崩れる。


影の中に入れる理由。


それは力ではなかった。


彼女が――


かつてそこにいたからだ。


風が二人の間を抜ける。


もう冷たくはない。


世界は少しずつ理解し始めていた。


影は、消すものではない。


通り抜けるものなのだと。

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