思い出す手
夕方の光は、町を少しだけ柔らかくする。
昼のざわめきが落ち着き、店先の影が長く伸び始めていた。彼女は長屋へ戻る道をゆっくり歩いていた。
少年の指先の感触が、まだ袖に残っている気がした。
触れられたのはほんの一瞬だった。それでも、何かが静かに変わった感覚があった。
助けた、とは思わなかった。
何かをした覚えもない。
ただ、そこにいただけだった。
長屋の戸を開けると、竈の火は小さくなっていた。炭が赤く息をしている。彼女は薪を一本足し、火を整える。
ぱち、と音が弾ける。
その音を聞いた瞬間、胸の奥に懐かしさが走った。
理由は分からない。
けれど、昔から知っている音のように感じた。
湯をかけ、静かに座る。
火を見つめていると、思考は自然とほどけていく。
少年の言葉が浮かぶ。
「風、ない」
あのとき、彼は風を探していた。
風は吹いていたのに。
彼女は目を閉じた。
耳を澄ます。
外の生活音。遠くの足音。誰かの笑い声。すべては確かに存在している。
けれど、届かなくなる瞬間がある。
音が消えるのではない。
届く道が、細くなる。
そんな感覚だった。
火が揺れる。
その揺れを見ているうちに、彼女は気づいた。
朝、空き地で空を見上げたとき。
風が戻った。
今日、少年が袖を掴んだとき。
呼吸が戻った。
どちらも同じだった。
何かを変えたのではない。
ただ、急がなかった。
急かさなかった。
そこに留まった。
それだけだった。
火の音が小さく続く。
彼女は自分の手を見た。
特別な手ではない。傷も力もない、ただの手。
それでも、誰かが掴んだとき、離れなかった。
そのことだけが、静かに胸に残った。
外で風が鳴る。
夕方の風は朝よりも重く、町の隙間をゆっくり通り抜けていく。
彼女はふと気づく。
空き地へ行きたいと思っている自分に。
確かめたいわけではない。
ただ、そこへ戻る必要がある気がした。
理由はまだ分からない。
けれど足はもう、次の朝を待ち始めていた。




