風が止まる夕方
夕方の光は金色だった。
街道はゆるやかに下り、遠くに小さな町が見えている。
煙がいくつも上がり、夕餉の支度が始まっている時間だった。
彼女は歩きながら空を見上げる。
「今日はあったかいね」
騎士は短く頷く。
風は穏やかだった。
草が波のように揺れている。
何も異変はない。
――そのはずだった。
彼女がふと足を止める。
騎士も同時に止まった。
言葉はない。
だが、同じ違和感に触れていた。
音が、少ない。
虫の声が遠い。
鳥が飛んでいない。
風は吹いている。
けれど――
揺れが続かない。
草が一度だけ動き、そのまま静止する。
まるで誰かが世界の呼吸を途中で止めたように。
彼女が小さく息を吸う。
「……変」
騎士の手が自然に剣へ触れる。
空気が重いわけではない。
圧迫もない。
むしろ逆だった。
軽すぎる。
存在の手応えが薄い。
遠くの町から聞こえていたはずの生活音が、急に届かなくなる。
犬の吠える声も。
人の話し声も。
すべてが布の向こうへ遠ざかる。
風が――止まった。
完全に。
草が動かない。
衣も揺れない。
空だけが、ゆっくり流れている。
彼女の喉が乾く。
これまで感じた停滞とは違う。
場所ではない。
範囲が広すぎる。
「……騎士」
「ああ」
短い返事。
彼も理解していた。
これは局所的な影ではない。
町全体が触れられている。
次の瞬間だった。
遠くの町の上空。
空気が、わずかに歪む。
熱でも煙でもない。
見えない何かが重なり、光の層がずれる。
まるで巨大な影が、世界の裏側から覆いかぶさろうとしているようだった。
彼女の胸が強く脈打つ。
足が自然に前へ出る。
止まっている場合ではないと体が知っている。
騎士が低く言う。
「急ぐぞ」
彼女は頷く。
二人は同時に走り出した。
風のない道を。
音の消えた世界を。
背後で、草が一斉に伏せた。
風が吹いたのではない。
何かが、通った。




