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火の向こう側

夜は早く訪れた。


雲が薄く広がり、星はぼんやりとしか見えない。


二人は街道を外れ、小さな林のそばで火を起こしていた。


枝が弾ける音。


炎の揺れ。


昼の出来事は、もう遠いはずだった。


けれど騎士の中では終わっていなかった。


彼女は火を眺めながら湯を飲んでいる。


何も聞かない。


それが、逆に静けさを深くする。


長い沈黙。


やがて騎士が言った。


「……昔」


唐突だった。


彼女は顔を上げない。


ただ聞いている。


「祓えなかった影がある」


炎が揺れる。


騎士の視線は火の中に落ちていた。


「暴れる影ではなかった」


低い声。


「今日の村の男に、少し似ていた」


彼女の手がわずかに止まる。


騎士は続けた。


「動かなくなった」


短い言葉。


それ以上の説明がない。


だが十分だった。


「斬れなかった」


炎が小さく音を立てる。


「害があるように見えなかった」


風が林を揺らす。


騎士の声が少しだけ掠れる。


「……妹だった」


沈黙が落ちる。


夜の音が遠くなる。


彼女は何も言わない。


騎士も続けない。


言葉を探しているわけではない。


ただ、思い出している。


「急に笑わなくなった」


炎を見つめたまま言う。


「何を聞いても、“大丈夫”と言った」


一拍。


「だから待った」


風が弱く吹く。


「戻ると思った」


火が崩れ、火の粉が上がる。


騎士の拳がわずかに握られている。


「だが、戻らなかった」


それ以上の説明はなかった。


必要もなかった。


彼は長く息を吐く。


「……あのとき」


声が小さくなる。


「斬ればよかったのか、今でも分からん」


それは後悔ではない。


答えのない問い。


彼女はしばらく火を見ていた。


そして静かに言った。


「たぶん」


騎士がわずかに顔を上げる。


「どっちでも、苦しかったと思う」


責めない声。


慰めでもない。


ただ置かれた言葉。


騎士は目を閉じた。


否定しない。


できなかった。


火が静かに燃える。


しばらくして、彼女が小さく笑った。


「でもさ」


「なんだ」


「いま迷ってるってことは」


炎が揺れる。


「まだ風、止まってないってことだよ」


騎士は答えなかった。


だが視線が少し柔らいだ。


夜の風が二人の間を通る。


静かな夜だった。

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