手を伸ばす距離
午後の光は、朝よりも町を現実に引き戻していた。
洗濯物が風に揺れ、店先には人の声が戻っている。朝の静けさはもう誰の記憶にも残っていないようだった。
それでも彼女の足は、自然と道具屋の方へ向かっていた。
理由を考える前に、体が動いていた。
店先にはもう人だかりはなかった。扉は半分開き、奥から木を削る音が聞こえる。日常が戻ったように見える。
戸口の影に、小さな背中があった。
朝の少年だった。
椅子に座ったまま、足をぶら下げている。母親の姿は見えない。預けられているのだろう。道具屋の主人は奥で作業をしていて、時折こちらを気にする視線を向けていた。
少年は地面を見ていた。
視線は動いているのに、何も見ていないようだった。
彼女は少し離れた場所で立ち止まった。
声をかける理由はない。通り過ぎても不自然ではない距離。
それでも、足が動かなかった。
風が弱く吹き、軒先の布を揺らした。
少年の指先が空を掴むように動いた。
何かを探している。
彼女はゆっくり近づいた。
足音を立てないようにしたわけではない。ただ自然に、静かに歩いた。
少年の隣まで来ても、声はかけなかった。
同じ方向を向いて立つ。
しばらくして、彼女はしゃがみ込んだ。
視線が同じ高さになる。
少年の呼吸は浅くも深くもない。ただ、どこか遠くへ向かっているようだった。
「……風、ない」
少年が小さく言った。
彼女は否定しなかった。
説明もしなかった。
ただ、通りを抜けていく風に耳を澄ませた。
しばらくして、彼女は自分の手を膝の上に置いた。触れようとはしない。差し出しもしない。ただ、そこにあるだけの手。
沈黙が続いた。
道具屋の奥で木槌の音が鳴る。遠くで誰かが笑う。生活の音は確かに存在していた。
それでも少年の周りだけ、時間がゆっくりだった。
やがて風が少し強く吹いた。
通りの埃が舞い、軒先の鈴が小さく鳴る。
その音に、少年の目がわずかに動いた。
彼の視線が、初めて彼女の手に落ちた。
数秒の間。
少年の指がゆっくり伸び、彼女の袖の端をつまんだ。
力はほとんどなかった。
それでも確かに、触れていた。
彼女は動かなかった。
握り返さない。
引き寄せない。
ただ、そのままにしておいた。
風がもう一度通り抜けた。
少年の肩が、ほんの少しだけ下がった。
息が深くなる。
遠くに置き忘れていたものを思い出すように、彼は小さく瞬きをした。
「……聞こえる」
誰に向けた言葉でもない。
けれど確かに、今ここに戻ってきた声だった。
彼女はようやく立ち上がった。
少年の手は自然に離れた。
何も起きなかったように、町の午後は続いている。
けれど彼女には分かっていた。
自分が、少年とのあいだにあった境界の内側へ、そっと足を踏み入れていたことを。
気づかぬまま、いつもそうしてしまう自分の在り方で。




