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戻らなくいい場所

針の音が続いていた。


変わらない速さ。


変わらない模様。


広場には穏やかな午後の光が落ちている。


風は相変わらず、木の中心を避けて流れていた。


彼女は女性の向かいに座った。


距離は近すぎず、遠すぎない。


何も言わない。


説得もしない。


問いかけもしない。


ただ、同じ場所にいる。


騎士は少し離れた場所で立っていた。


剣に触れる必要はない。


だが離れる理由もなかった。


沈黙が長く続く。


普通なら居心地の悪くなる時間。


けれどここでは違った。


針が布を通る。


風が葉を揺らす。


遠くで誰かが戸を閉める音。


世界は動いている。


女性がぽつりと言った。


「みんな、先にいっちゃった」


独り言のような声。


彼女は頷かなかった。


否定もしない。


女性は続ける。


「置いていかれるのは嫌なのに、動けなくて」


針が止まる。


初めてだった。


女性は布を見つめたまま言う。


「だから、ここにいようって」


声に涙はない。


痛みもない。


ただ、選び直した人の声。


彼女は静かに息を吸った。


胸の奥に浮かんだ言葉を、そのまま外へ出す。


「……いいんじゃないですか」


女性の手が止まる。


ゆっくり顔を上げる。


驚きでも戸惑いでもない。


ただ、予想していなかった表情。


彼女は続ける。


「そこにいたいって思う間は」


風が少し動く。


「そこにいてもいいんじゃないですか」


それは慰めではなかった。


許可でもない。


ただの事実のように置かれた言葉。


女性の目が揺れる。


長い時間、閉じられていた水面に小さな波が立つ。


「……進まなくていいの?」


小さな問い。


彼女は首を横に振る。


沈黙。


風が、ほんの少し木の中心へ入り込む。


葉がかすかに鳴る。


女性は目を閉じた。


針を握ったまま。


深く息を吸う。


そして――


初めて、肩がわずかに下がった。


力が抜ける。


進まなくてもいい。


その暗黙が、止まっていた時間に触れた。


騎士はその様子を見ていた。


理解はできない。


だが分かる。


これは戦いではない。


斬れば壊れる。


だから今まで誰も触れられなかった。


彼女は何もしない。


ただ、そこにいる。


それだけで風が変わっていく。


やがて女性が小さく笑った。


ほんのわずか。


作られた笑顔ではない。


短く、自然な笑み。


その瞬間。


木の中心を避けていた風が、静かに通り抜けた。


一度だけ。


確かに。


葉が大きく揺れる。


針が女性の手から滑り落ちた。


彼女は拾おうとせず、ただ風を感じていた。


長い時間ぶりに。


彼女は何も言わなかった。


戻ったわけではない。


前へ進んだわけでもない。


ただ――


止まった場所に、風が届いた。


それで十分だった。

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