風の残り香
木の葉が揺れた。
けれど風は通らない。
枝の外側だけを撫で、中心を避けていく。
彼女は女性の向かいに立ったまま動かなかった。
針が布を通る音。
規則正しい。
静かすぎるほど静かだった。
騎士は少し離れた場所に立つ。
警戒はしている。
だが剣に手は伸びない。
戦う相手がいない。
それが逆に落ち着かない。
彼女は目を閉じた。
理由はない。
ただ、そうした方がいい気がした。
呼吸をゆっくり落とす。
風を探す。
外の風ではない。
ここに残っている風。
すると――
微かな揺れを感じた。
今の風ではない。
もっと前の。
暖かい空気。
笑い声。
走る足音。
一瞬だけ、景色が重なる。
子どもたちがこの広場を走っている。
木の周りを回り、誰かが転び、笑いが弾ける。
同じ場所。
同じ木。
風がまっすぐ通っていた頃。
彼女は思わず息を止めた。
消える。
景色はすぐにほどける。
今の静かな広場へ戻る。
女性の針は止まらない。
同じ模様。
同じ動き。
彼女は目を開けた。
胸の奥がざわついている。
悲しみではない。
取り残された温度。
「……ここ、前は賑やかだった?」
自然に言葉が出た。
女性の手が止まる。
ほんの一瞬。
針が布に刺さったまま動かない。
「……そうだったかも」
曖昧な答え。
思い出そうとしている顔ではない。
遠くの話を聞いた人のような表情。
風が弱く揺れる。
彼女には分かった。
忘れたのではない。
触れない場所に置いた。
女性はゆっくり言った。
「でも、静かな方が楽なの」
穏やかな声。
痛みはない。
拒絶もない。
ただ確信。
「何も変わらないから」
その言葉を聞いた瞬間。
彼女の胸に重さが落ちた。
変わらない。
進まない。
失わない。
だから風が止まった。
騎士が眉を寄せる。
意味は完全には分からない。
だが空気が変わったことだけは感じていた。
彼女の周りだけ、風が微かに動いている。
女性は再び針を動かし始めた。
だが今度は、ほんのわずかに手が遅い。
何かが揺れた。
彼女は確信する。
ここには影がいる。
暴れていない。
形もない。
けれど確かに――
「前に進まない」という選択として。
彼女は静かに息を吐いた。
祓うものではない。
思い出すものだ。
風が、かすかに木の中心へ触れた。
ほんの一瞬だけ。




