影に触れた子ども
昼に近づくにつれ、町の音は少しずつ厚みを取り戻していった。
洗濯物が風に鳴り、荷車の軋む音が通りを横切る。朝の薄さは消え、いつもの生活が重なり始めている。けれど彼女には、その重なりがどこか急ごしらえのように感じられた。
竈の火を整えたあと、彼女は再び外へ出た。
理由はなかった。ただ、家の中に留まるより外の空気に触れていたかった。
通りを歩くと、見慣れた人々がそれぞれの仕事に戻っている。誰も異変を口にしない。誰も気づいていないようだった。
坂の下、古い道具屋の前に人が集まっていた。
大げさな騒ぎではない。通りがかりの者が足を止め、様子を見ている程度の静かな輪だった。
彼女も自然に歩みを緩めた。
店先の椅子に、少年が座っていた。
十歳ほどだろうか。空き地で見かける子どもたちの一人だった。泥のついた靴のまま、背を丸めて座っている。怪我をしている様子はない。泣いてもいない。
ただ、動かなかった。
道具屋の主人が困った顔で腕を組んでいる。
「朝からここにいてな……」
誰にともなく説明する声。
「声をかけても返事がないんだ。聞こえてないわけじゃなさそうなんだが」
近くにいた女がしゃがみ込み、少年の顔を覗いた。
「お母さんは?」
返事はない。
少年の目は開いている。眠っているわけでもない。ただ、焦点が少し遠い場所に向いていた。誰かを見るでもなく、何かを探すでもなく。
風が吹き、店先の布が揺れた。
そのとき、少年の肩がわずかに震えた。
彼女は足を止めたまま、その様子を見ていた。
怖がっているようには見えない。苦しんでいるわけでもない。ただ、どこか別の場所に取り残されているようだった。
「朝は普通だったんだよ」
道具屋の主人が続ける。
「空き地で遊ぶって言って走っていってな。それから戻ってきたら、こうだ」
空き地。
その言葉に、彼女の中で朝の静けさが重なった。
誰も気づかないほど小さな違和感が、ここで形を持っている気がした。
彼女は輪の外から一歩だけ近づいた。
少年の前にしゃがみ込む者はいなかった。皆、どう扱えばいいのか分からず距離を保っている。
彼女は声をかけなかった。
ただ、少年と同じ高さまで視線を落とした。
風が通り抜ける。
その瞬間、少年の指先がかすかに動いた。
土を掴もうとするような、小さな仕草。
彼女は気づかないふりをした。
しばらくして、少年の母親が息を切らして駆けてきた。名を呼び、肩に手を置く。少年はゆっくり瞬きをしたが、すぐには反応しなかった。
周囲の人々は安堵したように散り始める。
大事にはならない。そう判断した空気が広がった。
彼女も立ち上がった。
去ろうとしたとき、背後で少年が小さく呟いた。
「……風、どこ?」
誰に向けた言葉でもなかった。
母親は気づかず、少年の背をさすっている。
彼女だけが、その言葉を聞いた。
振り返らなかった。
ただ、歩きながら耳の奥に残る響きを受け止めた。
風は吹いている。
町も動いている。
それでも、どこかで届かなくなっている場所がある。
その感覚だけが、静かに確かになり始めていた。




