風のあと
音が戻ったのは、ゆっくりだった。
最初に聞こえたのは、鳥の声だった。
遠くで一羽。
少し遅れて、もう一羽。
まるで世界が呼吸の仕方を思い出しているようだった。
裂け目があった場所には、もう何もない。
井戸の石壁だけが静かに立っている。
風が通る。
今度は止まらない。
迷いもない。
町の中へ、自然に流れていく。
⸻
騎士は剣を下ろしたまま動かなかった。
戦いが終わった実感がない。
敵を倒した感触も、
勝利の高揚もなかった。
ただ――
重さが消えていた。
長く背負っていた何かが、
気づかないうちに降りている。
彼は手を開く。
震えていない。
初めてだった。
戦いのあとに、
急がなくていいと感じたのは。
⸻
彼女は井戸の縁に腰を下ろしていた。
呼吸はまだ少し浅い。
けれど苦しさはない。
風が頬を撫でる。
同じ風なのに、
触れ方が違う。
押し寄せてこない。
ただ通り過ぎていく。
彼女は小さく笑った。
「……静かだね」
騎士が頷く。
だがそれは、音が少ないという意味ではなかった。
町はむしろ賑やかになっていた。
遠くで市場の声がする。
鍋のぶつかる音。
子どもが走る足音。
それなのに――
静かだった。
音が、それぞれ自分の場所に戻っている。
重なりすぎない。
押しつけてこない。
⸻
通りへ戻ると、町の人々が動き始めていた。
誰も異変に気づいた様子はない。
井戸のことを話す者もいない。
ただ、
歩く速度が自然だった。
会話が途中で止まらない。
笑い声が最後まで続く。
小さな変化。
だが確かだった。
⸻
パン屋の前を通る。
昨日、動けなくなっていた女性が、
手際よくパンを並べている。
彼女たちに気づき、笑った。
「今日は風がいいね」
何気ない言葉。
だが騎士は足を止めた。
以前なら聞き流していた言葉だった。
けれど今は分かる。
本当に、風がいい。
⸻
子どもが走り抜ける。
転びかけて、
自分で立て直す。
泣かない。
そのまま笑って走っていく。
彼女はその背中を見送った。
胸が少し温かくなる。
守らなければ、と思わない。
止めなければ、とも思わない。
ただ――
進んでいくのを見ていられる。
⸻
騎士が低く言った。
「……終わったのか」
問いだった。
彼女は少し考える。
首を横に振る。
「終わった、っていうより」
言葉を探す。
風が髪を揺らす。
「戻ったのかも」
騎士は黙る。
否定しない。
今なら分かる。
断ったのではない。
失われていた流れが、
自分で動き出しただけなのだと。
⸻
鐘が鳴る。
昼を知らせる音。
町の空気が自然に揺れる。
そのとき、騎士はふと気づく。
影の気配がない。
完全に。
今まで旅をしてきて、
どこかに必ず残っていた微かな滞りが、
感じられない。
まるで――
世界の底に流れていた緊張が、
ほどけたように。
彼は空を見上げる。
雲がゆっくり流れている。
普通の空。
だが少し広く見えた。
⸻
彼女も同じ空を見ていた。
「ねえ」
騎士を見る。
「これから、どうする?」
いつもの問い。
だが意味が違っていた。
使命ではない。
旅の続きとしての問い。
騎士はすぐに答えなかった。
長い間、行き先は決まっていた。
影を追う。
祓う。
それだけだった。
だが今。
初めて、選べる気がした。
彼は少し考えてから言う。
「……風の行く方へ」
彼女が笑う。
「それ、ずるい答え」
騎士は少し困った顔をする。
冗談だと分かっているが、
どう返せばいいか分からない。
彼女は立ち上がる。
「じゃあ、同じだね」
そう言って歩き出す。
騎士も後を追う。
並ばない。
少し距離を空けて。
けれど歩幅は自然に合っていた。
⸻
風が町を抜ける。
止まらない。
迷わない。
そして初めて、
風は二人を導かなかった。
ただ、共に歩いていた。




