井戸のそばに立つ人
町は、いつもの午後に戻っていた。
市場の声が遠くに重なり、パンを焼く匂いが風に混じる。
中庭では子どもたちが走り回っていた。
井戸の周りにも、人が自然に立ち寄るようになっている。
誰も特別な顔はしていない。
ただ、使っている。
それだけだった。
彼女は石段に座り、その光景を眺めていた。
騎士は少し離れた場所に立ち、周囲を見ている。
警戒ではない。
確かめているような視線だった。
風は途切れず流れている。
もう押し戻されない。
中庭は完全に町へ戻っていた。
そのときだった。
通りの入口で、人が立ち止まった。
年配の男だった。
背は高くない。
外套も着ていない、ごく普通の町の服。
けれど足が動かない。
中庭の境目で、立ち尽くしている。
誰も気づかない。
子どもたちは遊び続け、井戸の水音が響く。
男の視線は井戸に向いていた。
遠くから。
近づこうとはしない。
ただ見ている。
彼女は動かなかった。
呼ばない。
手招きもしない。
ただ、そこにいる。
風がゆっくり男の方へ流れる。
衣の裾がわずかに揺れる。
男の肩が小さく動いた。
一歩。
踏み出す。
すぐに止まる。
呼吸が浅くなるのが遠目にも分かった。
騎士がわずかに身を乗り出す。
だが彼女は視線だけで制した。
何もしない。
待つ。
風が中庭を巡る。
子どもが笑いながら走り抜け、男の前を横切った。
その無防備な動きに、男の表情が揺れる。
恐怖ではない。
戸惑いだった。
世界が先に進んでいることへの。
もう一歩。
今度は止まらなかった。
井戸へ近づくわけではない。
中庭の端まで来て、立つ。
それだけだった。
けれど十分だった。
風が、深く通る。
井戸の上を越え、石壁を抜け、町へ広がる。
止まっていた何かが、ほどける。
男は井戸を見ない。
代わりに空を見上げた。
長い間していなかった動作のようだった。
しばらくして、小さく息を吐く。
そのまま踵を返し、来た道を戻っていった。
急がず。
逃げるでもなく。
ただ歩いて。
彼女はそれを見送った。
何も起きなかった。
涙も、言葉もない。
それでも分かる。
時間が動いた。
騎士が低く言った。
「……あれが」
彼女は頷く。
説明はいらなかった。
騎士は井戸を見る。
剣を抜く必要がなかった場所。
断たなくても進んだ時間。
長い沈黙のあと、彼は呟く。
「……戻れるものも、あるのか」
問いではなかった。
自分の中へ落ちていく言葉だった。
風が通る。
中庭はもう、特別な場所ではない。
ただの町の広場だった。
彼女は静かに立ち上がる。
役目が終わったことを、体が先に理解していた。
遠くで街道の風が鳴る。
町の外から呼ぶように。
騎士もそれを聞いていた。
二人は同時に、同じ方向を見る。
次に進む時が来ていた。




