戻る音
裂け目が開いた。
音が消える。
風も、町も、光さえも止まる。
巨大な影が姿を現す。
形は定まらない。
黒い波のように揺れながら、
見ている者の記憶を映し出す。
騎士の呼吸が乱れる。
視界が引き剥がされる。
あの部屋。
閉じた窓。
揺れないカーテン。
「……大丈夫だよ」
優しい声。
壊れていく人ほど、優しくなる。
助ける側を安心させる声。
彼の膝がわずかに沈む。
剣が重い。
腕ではない。
時間が動かない。
間に合わなかった瞬間が、
何度も繰り返される。
⸻
隣で、彼女も立てなくなっていた。
別の景色。
笑っていた人。
冗談を言い合っていた日。
何気ない午後。
それが少しずつ減っていく。
会話が短くなる。
沈黙が増える。
呼んでも返事が遅れる。
そして――
戻らなかった。
胸が締めつけられる。
呼吸が浅い。
世界が遠い。
影が近づく。
飲み込まれる。
ここで止まる。
また。
同じように。
⸻
そのとき。
小さな音がした。
ぱち。
誰かが火に薪をくべたような音。
彼女の記憶だった。
旅の夜。
川辺。
湯気の立つ器。
騎士が無言で差し出した湯。
少し苦くて、
少し熱すぎた。
思わず笑ったこと。
「猫舌なんだ」
冗談を言った自分。
騎士が意味を理解できず、
少し困った顔をしたこと。
どうでもいい記憶。
戦いとは無関係な瞬間。
けれど。
胸の奥に温度が戻る。
息が入る。
⸻
風がわずかに動く。
彼女は気づく。
影は恐怖そのものではない。
**“今が消えること”**だった。
過去だけになること。
時間が止まること。
彼女は震えながら言う。
「……いま、ここにいる」
誰に向けた言葉でもない。
自分へ。
そして隣へ。
⸻
騎士の耳にも届く。
別の音。
器が石に触れる小さな音。
火のはぜる音。
夜風。
彼女が眠る呼吸。
旅の夜。
何も起きていなかった時間。
戦いでも使命でもない時間。
ただ、隣に誰かがいた時間。
胸が強く動く。
呼吸が戻る。
剣の重さが消える。
⸻
影が揺れる。
巨大な圧が崩れ始める。
過去だけで閉じていた空間に、
現在が入り込む。
風が吸い込まれる。
彼女は一歩前へ出る。
怖いまま。
震えたまま。
それでも。
「怖かったね」
静かな声。
「助けられなくて、悲しかったね」
否定しない。
直さない。
意味を与えない。
ただ認める。
⸻
その瞬間。
風が通った。
暴風ではない。
朝、洗濯物を揺らすような、
ありふれた風。
影が裂ける。
黒ではなく、
光の粒としてほどけていく。
止まっていた時間が、
現在へ戻る。
町の鐘が鳴る。
遠くで誰かが笑う。
犬の吠える声。
生活の音。
世界が再び動き出す。
⸻
騎士は初めて理解する。
影を断ったのではない。
戻したのだ。
時間を。
呼吸を。
「いま」に。
⸻
巨大な核が崩れる。
風が町へ流れ出す。
裂け目が閉じていく。
彼は剣を下ろした。
斬る必要はなかった。
隣を見る。
彼女が立っている。
震えながら。
それでも、笑っていた。
少しだけ。
いつものように。
⸻
風が通る。
今度は、
二人の間を。




