断てなかった日
風の音が変わった。
騎士はすぐに気づいた。
剣を振るうたび荒れていた空気が、突然静かになっている。
斬る必要がなくなったわけではない。
だが――敵意が消えていた。
影が彼女の周囲へ集まっている。
襲っていない。
触れている。
帰る場所を確かめるように。
騎士の呼吸が乱れる。
理解が追いつかない。
剣を構えたまま動けなかった。
「……何をしている」
問いは、彼女ではなく自分に向いていた。
彼女は座っている。
ただ呼吸している。
戦っていない。
祓っていない。
それなのに。
影が崩れていく。
ゆっくりと。
ほどけるように。
その光景を見た瞬間――
記憶が重なった。
古い部屋。
薄暗い窓辺。
揺れないカーテン。
風が入らない空間。
幼い背中。
小さな肩。
名前を呼ぶ。
何度も。
「……大丈夫だ」
そう言った。
覚えている。
声の震えまで。
だが返事は遅かった。
振り向くまでに、長い時間があった。
目は開いている。
生きている。
けれど――戻っていなかった。
外では風が吹いていた。
村は動いていた。
人も笑っていた。
なのに、その部屋だけ止まっていた。
騎士は拳を握る。
あの時、自分はまだ若かった。
祓いを学び始めたばかりだった。
原因を探した。
影を疑った。
剣を持ち出した。
断てば戻ると信じていた。
だが。
何も変わらなかった。
時間だけが過ぎた。
そしてある日。
その背中は、もう立ち上がらなかった。
風は吹いていた。
確かに。
世界は正常だった。
――遅かった。
その言葉だけが残った。
騎士は目を強く閉じる。
広場の現在の音が戻る。
彼女の呼吸。
揺れる風。
影が静かにほどけていく光景。
同じだ。
違うはずなのに。
同じ場所に立っている気がした。
剣を握る手が震える。
「……断てば、戻る」
長年繰り返してきた言葉。
だが今、確信が揺らぐ。
あの時。
断つべきものは本当に影だったのか。
彼は初めて考える。
もしかしたら――
待つ時間が必要だったのではないか。
寄り添う時間が。
風が通るまでの時間が。
彼女の声が届く。
小さく。
「急がなくていいよ」
騎士は顔を上げる。
彼女は目を閉じたまま。
誰へ言った言葉か分からない。
だが胸に刺さった。
剣が、わずかに下がる。
影がさらに崩れる。
黒ではない。
光でもない。
ただの空気へ戻っていく。
騎士は理解する。
自分はずっと戦っていた。
失った日の続きを終わらせるために。
間に合わなかった自分を否定しないために。
だから迷わなかった。
迷えば、あの日を認めることになるから。
彼はゆっくり息を吐く。
剣先が地面へ下がる。
初めてだった。
影の前で剣を下ろしたのは。
風が広場を抜ける。
軽い。
長い間止まっていたものが、動き出す音だった。
騎士は小さく呟く。
誰にも聞こえないほどの声で。
「……待っても、よかったのか」
答えはない。
だが風が通った。
それだけが、確かだった。




