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待つ場所

中庭には、人の気配が戻らないままだった。


町の音は遠くにある。


井戸の周囲だけ、時間が少し遅い。


風は通り始めている。


だが急がない。


長く閉じていた道を確かめるように、慎重だった。


騎士は井戸を見つめている。


剣には触れていない。


抜けば断てる。


そう分かっている場所だった。


だが、今は動かなかった。


彼女は井戸の縁から少し離れた石段に座った。


何かをするわけではない。


祈るでも、考えるでもない。


ただ、そこにいる。


騎士が言う。


「……戻るのか」


問いというより確認だった。


彼女は首を横に振る。


「もう少し」


理由は説明できない。


ただ、ここは急いではいけない場所だと分かる。


風が弱く吹く。


草が揺れる。


井戸の奥から冷たい空気が上がる。


時間がゆっくり流れ始めている。


しばらくして、通りの方から足音がした。


若い母親と、小さな男の子。


中庭の入口で立ち止まる。


普段なら近づかない場所なのだろう。


母親が少し迷う。


男の子が先に一歩踏み出した。


「ここ、前は広場だったんだって」


無邪気な声。


母親は苦笑する。


「おばあちゃんが言ってたね」


二人は井戸には近づかず、端を歩くだけだった。


それでも十分だった。


風が変わる。


わずかに。


閉じていた流れが広がる。


彼女は目を閉じる。


何もしない。


ただ、去らなかった。


騎士はその様子を見ている。


祓えば早い。


だが今、流れは自分で戻り始めている。


剣を抜けば、この変化を断ってしまう気がした。


理由は説明できない。


経験にもない感覚。


男の子が笑いながら走る。


草を踏む音が中庭に響く。


音が残る。


消えない。


それだけで、空気が少し軽くなる。


母親が言う。


「思ったより普通だね」


その言葉が、長い沈黙をほどいた。


避けられていた場所が、ただの場所へ戻り始める。


彼女はゆっくり目を開ける。


風が井戸を越えて町へ流れていく。


昨日より、深く。


騎士が小さく息を吐いた。


「……断たなくても、戻るのか」


独り言のようだった。


否定ではない。


理解でもない。


ただ、新しい事実としてそこにある言葉。


彼女は答えない。


説明できないからではない。


説明する必要がない気がした。


風が通る。


中庭を抜け、町へ広がる。


遠くで市場の鐘が鳴った。


音が真っ直ぐ届く。


騎士は井戸から視線を外した。


剣には触れないまま。


「今日は、ここに泊まる」


決断というほど強い声ではない。


だが、彼自身の選択だった。


彼女は小さく頷く。


夕方の光が石壁を柔らかく染める。


中庭はもう、閉じた場所ではなかった。


誰も急がなかったから。


風が、戻る時間を持てたから。

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